棘抜き

島尾敏雄の『死の棘』は今まで読んだ小説の中でも、もっとも深く心に刺さったものだったが、ようやくこの前発刊された『死の棘日記』を読み始めた。ぼく自身、『死の棘』ほどではないが、無間地獄の日々が続いた時は、本当に気が狂いそうになったけど、それでもやっぱり、いつも通りに在宅バイトしたり映画をみたり日記を書いたりすることが救いというか、自分を保てる拠り所になっていたような気がする。この淡々と綴られた日記の反復される日常においては、ラジウム湯に行くのと妻の気がふれるのが同じように並べられているが、実際はそうではなく、妻ミホがまえがきで触れるように苦痛の日々だったはずだ。しかし、日記という水準では各要素の落差がほとんど消失していて、そこにパースペクティヴというものは介在しなくなっている。
ふと思い出したが、高橋源一郎バクシーシ山下のAVを評して、そんなことを書いていたような気がする。バクシーシ山下のAVにおいては、セックスもゲロもウンコもマゾも小人も浣腸も特別なものではなくて、すべて面白い対象としてフラットに括られるのだった。
そういえば、村上龍の『半島を出よ』でも、そんな描写はうかがえる。イシハラのところに集まった社会をドロップアウトした者たち。彼らはみんな他人との距離やかかわり方が分からず、時折、周りの事物を認識できなくなったり、自分の顔を自分の顔だと認識できなくなったり、自分と自分以外のあらゆるものとの間に薄い膜が貼ってあるかのように感じたりする。日本社会からこぼれ落ちることで、彼らはパースペクティヴを失ったが、そのために日本的な思考や行動原理からも自由でいられた。
島尾敏雄の日記に戻れば、「作家の目」とは、もしかすると、パースペクティヴをあえて消失させ、フラットな状態に還元することを担っているのかもしれない。つきつめれば現象学などに突き当たるのかどうか……