映画を撮る……とは?

tido2005-05-01

朝、かろうじて3店舗ほどは残しておいたスロ屋からのメールを見て、ファーストデー・イベントに強く誘惑されてしまったが、それよりも映画を観たいという欲望が勝り、用事のついでに新宿のテアトルタイムズスクエアへ。欲望の矛先が正常になりつつある良い徴候だ。

アルモドバルの新作だから、もちろん予告編で観たような美しい映像のイメージは良い意味で裏切られるわけだけれど、しかし、違った映像美の展開の仕方としてのフィルム・ノワール+メロドラマというのは良かった。雨の暗がりの中で強く感情を刻んだ顔のアップが映しだされる後半の場面、まさにフィルム・ノワールものを上映している映画館から周囲に警戒心を張り巡らせつつ出てくる妖しい男2人連れの場面、単にそれらの場面をとってみても十分魅力的である。
もっとも、この映画ではそういった印象的な場面の反復が何度も行われていて、また、それらは単なる反復にとどまらない。例えば、前述の映画館の場面は、最初は少年2人が修道女の映画を観ていて、その内ひとりの少年が映画を観ながらオナニーするといった形であり、後の場面では中年男と美しい青年が映画館に入るところと出るところしか描かれない。また、この映画において幾度となく反復されるものとして最も印象的なのは、2人の別れである。冒頭こそ、アルモドバルの半自伝的人物としての映画監督が初恋の相手であったイグナシオという美しい青年と「再会」する場面から始まるのだが、映画は「別れ」にこそ重点が置かれているように思える。ラストの「別れ」は少し異なるが、男と男の「別れ」は、少年時代の場面、麻薬中毒になっていたが更生を願ったイグナシオがちょっとした旅に出る場面、元神父がファンと別れる場面……など、そういった場面においては取り残された者の表情が印象的に刻まれる。
一方、「再会」といえば、必ず「変身」を伴って立ち現れる。映画監督エンリケとイグナシオの再会、劇中劇のイグナシオ扮するサハラとエンリケの再会、エンリケと元マノロ神父の再会。それらが「変身」を伴っているというのは、この『バッド・エデュケーション』という映画の中では明確に描かれる。というのも、映画の中での回想とも劇中劇的映画ともつかない映像が、映画の中での現実の映像と共鳴しつつ、意図的にずらされているからである。この意図的な錯綜はどういうことか?
ぼくの個人的な印象からすると、イグナシオ、マノロ神父は映画中映画において美しく描かれているが、現実はその無防備な姿こそ心惹かれるが外見は醜い。言ってしまえば、2人とも悲惨な死を迎えることになる。けれども、映画監督であるエンリケのみ、映画中映画の方が落ちぶれていて醜く、現実の方が魅力的である。この映画がアルモドバルの半自伝的映画ということをあえて考慮するなら、映画中映画のエンリケの方がアルモドバル当人の容姿に近いのである。しかし、そんなことはどうでもいい。注目すべきは、エンリケが、まるでファム・ファタールのように描かれたファンに魅了されつつ、それよりも記憶の中に生きていて、現実には醜くなり悲惨な死を遂げていたイグナシオに魅了されていた、ということだろう。
映画監督としてネタに困り、日々新聞から三面記事の切抜きをやっているエンリケは、「ワニに喰われる女」みたいなネタに惹かれている。そこには美しさとおぞましさが同居している。フィルム・ノワールに見られるような非現実的で退廃的な美しさ……これはもちろん映画に必要である。そして、聖職者でありながら少年に性愛を施してしまう神父がいるような現実のありのままのおぞましさ……これも映画が描くべきものなのである。この両者に社会的評価を押しつけるのではなく、意志の向くまま、それらの間で純粋にもがく。光と影……どっちが欠けても良き映画は生まれないだろう。