『イノセンス』以来の球体関節人形

tido2005-05-07

「ブログ作法」から派生した話題はまだ冷めやらないようだけど、今月号の「ユリイカ」の話である。
イノセンス』関連で催された「球体関節人形展」などに行って、一時は強く興味を抱いたりしたけど、怠慢のためにすっかり忘れかけていた。そっちの方では持続的に盛り上がっていたのだろうか。以前の日記でも触れたかもしれないが、ぼくがバイトしていたビジネスホテルのマネージャーは、天野可淡の弟子だった人である。そんなこともあって、写真集を見せてもらったり、その人が作った人形を見せてもらったり、当時の話を聞かせてもらったりした。中でも、天野可淡がバイク事故で亡くなった時の話が印象に残っている。
球体関節人形といえば、空虚なまなざしと脱力した身体である。「ユリイカ」の特集では、金原ひとみ恋月姫の対談が掲載されているが、金原ひとみの小説の登場人物の心理的フラットさはどことなくそれを思わせる。「ユリイカ」では小川千恵子が自己愛としての人形と他者としての人形を対照して、後者をより肯定的に取り上げていたが、ぼくは個人的に、人形的なものにもっと曖昧なものを感じる。金原ひとみの小説にもかかわってくることかもしれないが、自己愛の対象でありながらどこか突き放した他者としての乖離した感覚、とでも言えるだろうか。これも前に触れたことかもしれないが、そのような感覚を強く覚えるものとして、しのざき嶺エロマンガの一部が頭をよぎる。
永山薫の言うところの「気持ちいいボクの身体」としてのふたなりシーメールエロマンガというジャンルの中でも、しのざきマンガは、享楽に溺れながらも、どこか欠落した(自己)愛を過剰に補おうとする振る舞いの物悲しさみたいなものを感じる。そしてまるで球体関節人形のように、まなざしは空虚でだらりと脱力した姿のイメージもある。それにやたらと傷や欠損がある人形というのも、おそらく作り手や人形を愛する受け手の心理、精神性が反映したものだろう。人形は人間の似姿なのだから、自己の投影や何らかの思いが対象に注がれるというのは避けられないし、それは小説やエロマンガといった創作物だろうが同じだろう。ゆえに、対象は対象として、つまり他者として、禁欲的に扱うという意志が重要性を帯びる。強い意志で作られた人形は美しいに違いない。
けれども、実際は自己愛が多かれ少なかれ反映してしまうということを、この球体関節人形恋月姫のようなビスクドールが日本で流行っている事実は証明している。ハンス・ベルメールのように言葉や記号のように身体を組み替えて人形を作る、というのも、ある意味、それぐらいあやふやな身体感覚の表れと理解できなくもない。乳房の反復みたいな試みは、日本の球体関節人形ではあまりないらしいが、エロマンガでは魔北葵などがやっていたりするし、今はアニミズム的な人形観よりも、あやふやな自己投影としての人形観がより増殖しているのかもしれない。ぼくは人形に詳しいわけでも何でもないので、ただの放言にすぎないのだが。
しかし、もうちょっと考えてみると、映画はやっぱり他者に近い。自己愛を投影しすぎると、まともな映画にならない。せめて、それをネタにするような回路が介在しなければならないだろう。今、地元の知人たちと郷土を舞台にした映画を撮ろうと、準備を進めているのだが、田舎町を盛り上げるイベントっぽい感じにしたいということもあって、妄想・暴走を断念した「おもしろい」映画にしようと模索中である。歪んだ自己愛に走りがちな自己を制御しなくては……もしかしたらこの日記はよくないのか?