最期のバイアグラ

tido2005-05-15

本日の映画は3本。新作2本と旧作を1本DVDで。それだけであっという間に貴重な休みが消費されてしまうのだから……

<※ネタバレを含んでいます。>
この映画の構造は簡単にジャンル分けできる。それほど既視感が強い内容だ。言ってしまえば、「記憶もの」「トラウマもの」「タイムスリップもの」をハイブリッドさせたようなものだ、といえば想像できるだろう。冒頭の意味深な鬼気迫る場面の後、過去の場面になるというのもまさにありがちな展開で、強くエフェクトのかかった描写にときおり嫌悪感を覚えるほど、分かりやすい演出が続き、また、後半の展開もある程度推測できてしまう。
主人公(アシュトン・カッチャー)はときおり記憶を失ってしまう病を父親から遺伝的に受け継いでいて、物語展開が主人公視点を中心に進められるため、伏線となる肝心な場面は観客から隠蔽され、それが一種の「謎解きもの」としての物語を成立させている。中盤、その謎を解明され、瞬間的記憶喪失がタイムスリップの契機となることが露呈し、それが物語を新たな展開へと導く。
しかし、この仕掛け、まさにチュンソフトばりのザッピング機能によく似ている。潜在的な物語展開を記憶喪失+タイムスリップによって次々とやってのけるのである。主人公の幼なじみであるヒロイン(エイミー・スマート)が幼き頃のトラウマを引きずり自殺する物語、主人公とヒロインが結ばれバラ色のキャンパスライフを送るが、偏執狂的なヒロインの兄に逆恨みされ、正当防衛で彼を殺し、刑務所生活を余儀なくされる物語、自らが両腕のない身体障害者となりみんなに手厚く介護されるが、ヒロインは友人にとられ、母は肺ガンで苦しんでいるという物語……。色調と(主人公以外の)人物造形の変化によって、それぞれの物語がコントラストを強化して巧妙に描かれ、物語の相対性を際立たせる。
様々な物語をまるで押井守ビューティフル・ドリーマー』のごとく目まぐるしく飛び移り、主人公は、ヒロインの幸福を実現するためにはヒロインとの成就を断念しなければならない、という選択を決断する。映画はラストシーンへ。↑の画像だ。医者として生きる主人公とヒロインが都会の人ごみの中で『東京ラブストーリー』のようにすれ違うという場面だった。
この映画、ここまでの展開の場面場面を見れば特筆すべき部分もなくあまり受けつけなかったが、しかし、この何ともないラストの場面には感動すら覚えた。このすれ違いは、ちょっと気になる人を街で見かけて振り向く程度のさりげないものである。けれども、その背後には主人公の妄想的な潜在的物語の旅があった。それが現実であろうと虚構であろうと関係ない。一部アドベンチャーゲームのザッピング機能のように、自らの幸福(あるいは身勝手に考えるヒロインの幸福)のために恣意的な選択を繰り返すこと。一見、この映画はその中でもっとも良い(マシな)結末を選択したかに思える。けれど、ぼくはそうではないと思う。
主人公が能力を受け継いだ父と対面する場面がある。精神病院の面会室で会った父は息子が能力を継いでいることを知り、さらに息子がその力を使ってより良い選択をしようと考えていることを聞き、彼を殺そうとする。神と同じことをしてはいけない、という父。勝手に深読みすれば父の象徴するものが想像できる。
ハリウッドの物語とは、『ハリウッド脚本術』などが教えてくれるように、潜在的な選択肢の中からより良きものを選ぶことの積み重ねに他ならない。そういった合理化システムによる量産態勢は成功してきたわけだが、近年日本やアジアの映画から権利を買い込んでいることからも分かるようにおそらくかなり疲弊してきてもいるのだろう。そういった状況を考慮すると、『バタフライ・エフェクト』がそのような物語の状況を反映し、かつこれからの映画のあり方に向けた射程距離を含みうるものだと思える。好意的な読み取りになったかもしれないが、この映画の後半を覆う苦渋のトーンは淀んだ現実を反映するものではないか?

<※ネタバレを含んでいます。>
前作よりも臨場感が増したような気はするが、基本的な物語の構造はあまり変わらない。調教の不可能性。欲望と謀略の狭間で純愛に目覚める青年と死を前にしたじいさんのロマン。杉本彩演じる静子は自分探しめいた性的冒険を体験しつつ中途半端なファム・ファタールに擬せられる。前作と同様に後半部分に用意された仮面舞踏会めいた凌辱オークションはさほど盛り上がらず、方向の見えない虚構性に包まれている。
杉本彩はどうなのか? 佇まいは虚構性をまとった芝居っぷりであるが、遠藤憲一の本気ともつかない迫力とぶつかると、映画におけるリアリティの水準が錯綜しているように感じられた。静子はいわばリアリティのない虚構的なイコンとして振る舞っているけれども、マゾ的な性体験による自己解放を志向してもいて、浴室の中で夢想した拷問が件のオークションにて実現するにもかかわらず、欲望の成就と恥辱の苦悶に揺れる様がどうも小芝居じみていてやりきれない。もっとも、それは杉本彩に問題があるというより、話の展開のわざとらしさ、虚構性とリアリティの不自然な入り乱れに起因するだろう。
密室においてしか調教は実現しないということは、団鬼六小沼勝谷ナオミの『花と蛇』→『生贄夫人』という流れでぼくが思ったこと(http://d.hatena.ne.jp/tido/20040328)だが、この『花と蛇2 パリ/静子』においては確かに限定的な密室がパリの画家の住む部屋に用意されはすれど、近親相姦的関係の妹が乱入してきたり携帯電話が突然鳴り響いたり、挙句に大きな鏡はマジックミラーだったという種明かしまでされることではしごを外されるのである。そして、マジックミラーの外にいたのは宍戸錠扮する静子の夫、しかも金髪の女装姿だった。調教ゲームという虚構の外には無様なじいさんのロマンという現実が存在し、調教師役を演じさせられた画家はまるで今話題の「ハーレムをつくろうとした男」のように本気になってしまう反面、静子は夫のロマンを叶えるべく夫の前でマスターベーションをする。「最期のバイアグラ」によって奮い起った夫は果てるのだった。
しかし、それだけに終ってはいない。「じいさんのロマン」と断じてしまったが、夫の葬儀の後の様子が付け加えられている。マジックミラーの外に静子が佇み、世間的な成功をおさめた画家とその妹を遠目に、自分で自分の身体を鞭打つという場面である。その滑稽な振る舞いは、鞭打たれているという妄想に転化し、浴室でのマゾヒスティックなマスターベーションの反復だ。結果的に見れば、おのおのの登場人物は自慰的に個別の妄想を生きるのである。
そうしてみると、いとも容易く遠藤憲一演じる画家になびいてしまう(ように見える)杉本彩演じる静子の「弱さ」とは何なのだろう? 調教されながらもすべてを自らの内に呑み込んでしまうかのような谷ナオミの虚構性の強さとは正反対である。もちろん、同じではなくていいのだが、和製ファム・ファタールとして描くベクトルを見せつつも、そこにリアリティが生じないのはそこに関係しているに違いないし、そもそもどちらかといえば自己開放的な杉本彩が調教されるところにエロティシズムが生じるのかどうかという問題もある。そこにあったのは1度限りのセンセーショナリズムではないか? 縛りにおいても前作より日本的SMの情緒から遠ざかりつつも、サド的なモノ=死を志向するSMにもそれほど接近はせず、結局どっちつかずの様相を呈しているように思える。それが狙いなのだろうか?
何か場違いな印象を受ける池袋シネマサンシャイン*1で観たとはいえ、少ない観客を占めていたのはやはり年輩層だった。そういう意味ではターゲットを絞った映画なのかもしれないが、これが出来の良い映画とは、ぼくは思えなかった。

詐欺まがいの心中ごっこをする予備校生の男女。ごっこはやがて現実に……ということで、ある意味で藤田敏八の映画の展開の仕方そのものを表わしているかのようなお話なのだが、1979年の映画ということもあってその辺の事情が紛れ込んでいるのだろう。70年代映画は70年代末になるに連れて苛酷さを増している面があるように思う。その背景にあった映画産業の衰退の過程をある程度反映してのことだと思う。心中といえば、78年の増村保造の『曽根崎心中』が頭に浮かぶが、男のためらによって凄惨さを増すラストの心中場面にしろ、『十八歳、海へ』で心中死体と2人の「あざ」に目をやる小林薫の表情にしろ、心中は結果的に行われても、妙に後味の悪さが残っていた。
中心となる登場人物4人の関係性が何とも微妙で、その辺りに注視すると見えてくるものがあるのかもしれない。南の島へは実際に行って撮影しているように見えるが、あれだけのシーンのために? 限りなく少人数とかなのか?

*1:そういえば劇場版『AIR』を観たのもこの映画館だった。