バラバラの身体

主人公となる少年の主観が中心となる前半のカメラの視点、暴力的なまでにサラやサラの男の細部が視界を埋め尽くし、かつ断片的にカットは切り替わるので、少年の世界同様ぼくたちはどこかまとまりを欠いた印象を抱かざるをえないのだが、それは劇中挿入される少年の両腕がもげ、赤い鳥に食われてしまうという場面に象徴される「バラバラな身体」といったイメージと重なるだろう。
ドラッグ映像は画面を歪めることで巧く表現しているが、何より少年の開かれた眼とそれを微笑みながら見返しているサラの眼の対比は、やがて成長した少年の眼、「壁」に怯えるサラの眼といった差異を経ながら、2人の関係性、ドラッグの浸透性を表している。
アーシア・アルジェント演じるサラの過剰な女の部分、そしてまるで少年がダダをこねるかのように暴れる側面、それらはたびたび表れても、母親としての姿は決して表れてこない。しかし、彼女は紛れもなく母親である。サラに振り回される形となっても少年は眼を大きく見開くことなく、夢遊病者のようにじっと前を見つめ続け、やがてドラッグにおかされた2人は幻覚に襲われ始めるが、こういった流れを追うカメラワークは現実から解離したかのように、加速・減速を繰り返す。
後半はまるで転調したかのように、ドラッグ中毒の様がサスペンスタッチで描かれたりして、それを差し引いたとしてもこの映画は全体的に非統一感の強い映画だと言えるだろう。しかし、ときおり挿入されるアニメーションにしろ、サラや少年の生き様、身体のありようにしろ、バラバラであることがこの映画のトーンを支えているのもまた事実である。引き裂かれた母子、引き裂かれた身体、引き裂かれた性、そして引き裂かれた物語。原作に忠実に撮ったと言われる本作は、映画のみで力強い表現となっているだろう。そして何より女優アーシア・アルジェントの身体こそが映画のリアリティを強く支えているのである。
ああ……眠い。酔っぱらって何を書いているのか分からなくなってきた。改めて書いた方がいいかもしれない。とりあえずここまでに。