予兆としての帽子

tido2005-05-22

ドラッグ映画の外見を装っていても実はそうではないということは、この映画の冒頭が瀕死のマット・ディロンの回想的な語りで始められることからや麻薬更生を始めようとする彼の劇中の台詞からもうかがえる。曰く、ヤク中は靴ひもを結ぶようなどうしようもない日常のダルさから逃れたいがためにドラックをやめようが何かに依存してしまう。このような依存のループの背景には、日常の希薄さ、手応えのなさがあって、この映画は、ドラッグに浸りながら遊戯的に日常をやり過ごす非日常と警察が何かのイベントのためにモーテルに押しよせてきてそのためにモーテルを退去しなくてはならないような融通の利かない退屈な日常の奇妙なバランスを夢遊病的に描いている。
確かに仲間の死が非日常を終らせるが、それが絶対的な現実の生々しさを露呈させるのではなく、例えば犬やベットの上の帽子というジンクス的なものの不吉さと等価に配置されているということに注目しなくてはならない。だから、ヤク中から更生した後の単純労働と起伏のない日常の反復でさえもそれなりに悪くないものとして主人公には自覚され、また前半と後半で異なる物語展開もほとんど同じトーンで描かれているのだろう。マット・ディロンが撃たれた後、銃声を耳にして部屋を覗きに来た隣のオバサンが警察に電話をかけるまでの演出を見ればよい。
そんな感じの映画とはいえ、マット・ディロンとケリー・リンチの幼なじみ夫妻が再会し、別れを惜しみながらするキス、部屋の外に出て彼女を見送りつつも最後に優しいひと言を投げかける辺りの演出は過不足なく見事で感動的である。