ブログ時代の暴露術

tido2005-05-27

サイゾー』などを読んでいてふと思った。中学生の時までは「チクリ」という言葉が日常的に使われていたけど、今の中学生も使っているのだろうか?
クラスや仲間うちで悪事を働くと必ず先生にチクるネズミがひとり紛れ込んでいるものだ。ちょっと前にはてなの質問でも盛り上がっていたけど、小学校の「帰りの会」でそういったチクリが議題を設定したりすることもあった。チクリはなくなったとしても、人間とは一定の行動パターンから逃れられないせいなのか、仲間うちを前提で話したことが他の(あまりよく思っていない人が混じっている場合が多い)グループに伝わっていたりすることはままある。だいたい告げ口しそうなタイプは分かる場合が多いし、仲間うちを前提にしつつもどこかでそいつが告げ口するのを期待している部分があったりするのだ。
それと直接関わるかどうか微妙なところだが、ここ最近、テレビなどで自己暴露系あるいはカミングアウト系の番組や番組内でのそういった告白、ネットやラジオなどでの有名人のさりげない吐露、そういった、多くはつまらないものを頻繁に見聞きしていると時代のひとつの方向性が見えてくるように思う。それは『噂の真相』の休刊ともかかわってくる問題だろう。
そういう傾向に伴うのは暴露内容のつまらなさに他ならない。SNS的な島宇宙化が進行する中、ひとつのコミュニティから他が見渡せなくなることで逆に見渡したい欲望を駆り立てられるのではないか、そうすると暴露ほどそれを満たしてくれるものはないのではないかと仮説を立てると、ぬるいワイドショーがそういった機能をいくぶん果たしているのかもしれないが、実際は欲望と暴露の甘い蜜の関係は成立してはいないとすぐに分かる。むしろ他人からの(多くはメディアによる歪曲された)暴露を避けるためか、自分の思いをよりダイレクトに届けようとネットなどでの自己吐露が選ばれる。それは誰に向けてか? 当人がそうは思っていなくても、それは自分のことを分かってくれる人に向けて発せられることになるだろう。それはそれで幸福なことかもしれない。相思相愛のコミュニティが成立しているのならば。
矢口真里のスキャンダルさえああいった形で収束する時代である。暴露やスキャンダルや秘密の告白に甘い蜜の味を求める者にとって不遇の時代だ。チクリにまつわるエピソードを思い出す時、緊張に満ちた今にも何かが起こりそうな空気がよみがえってくる。チクリとは仲間というぬるま湯につかったコミュニティを内部とも外部ともつかない微妙な位置から揺さぶってくるものだったのだ。あの時は憎らしかったチクリは、思えば卑怯ではあったが孤立を恐れていなかった。まるで人格に組み込まれているシステムであるかのようにだいたいのチクリと呼ばれる者は、常に期待を裏切らずにチクリ続けていた。
ブログにおいて、挨拶代わりのトラックバックというのはあまりぼくには縁がない。しかし、有名人周辺などを筆頭にそれが溢れかえっていて、そういうのを目にすると同じブログでもまったく別の現実であるかのように見える。では、ブログにおいていわゆる「チクリ」みたいなのはあるだろうか? あんなとこでこんなこと書いてますよ、ほっといていいんですか。確かにそういうのを目にしたこともあるような気がする。でもさすがに匿名でもないとこれはやりにくいかもしれない。暴露やカミングアウトも然り。こっちの場合は内容が濃すぎてコミュニティに馴染まないと一気に引かれるだろう。
そういう中でぬるくなった島宇宙を活性化させるには、idが固定されていても可能であるネタ的な振る舞いであり、もうひとつは『けなす技術』の切込隊長的な愛ゆえの批判ぐらいだろうか。はてなの管理画面に表示されるリンク先に気を取られるかどうかは自分次第であるが、やはり心理的に揺れてしまうというのが、関係なしでは生きられない愚かな人間の宿命だろう。