ナタリーは今

tido2005-06-01

こういった芝居色の強い映画はあまり好きではないのだが、予告編で勘違いしてまったく違う映画を想像してしまっていた。閉じた人間関係の環のみに焦点をあてることで、現実的な恋愛劇を徹底させているというのは確かに面白く、舞台で観ればさらに生つばを呑み込むような緊張感が生じるのかもしれない。けれど、そういった徹底は逆に薄っぺらい印象を与えもする。4人の登場人物がその職業や特性ゆえに社会と無関係でいられることは、閉じた恋愛劇を徹底させるための設定なのかもしれないが、現実の風景に配置されることでリアリティを失ってしまうことは確かだ。いや、映画では4人の外側も映し出しているけれど、それがすべて単なる道具として利用されてしまっていることが問題なのだ。
4人の登場人物の側からは、劇中にちょうどあるように、水族館の魚のようにこちらから眺め、自己を投影するものでしかなく、あちら側がこちらに何らかの影響を与えることはないのである。クライヴ・オーウェンジュリア・ロバーツにプレゼントする風船なども、都合よく配置された道具でしかなく、ナタリー・ポートマンが冒頭に遭遇する事故もジュード・ロウとの運命的な出会いを演出する道具にすぎない。世界は4人だけのものなのか。
そうはいっても、チャットに興じるシーンやストリップのクラブにおけるプライベート・ルームなどが意図的に用いられることで、閉じた関係の環が批評性として機能しているのだとも考えられるだろうが、印象としてはそんな感じは受けなかった。しかし、映画のラストを観てそういった印象は少し変わる。
ロンドンを舞台にした映画は、恋人と別れてアメリカから来たストリッパー、ナタリー・ポートマンを除いてみんな英国人という設定である。揺れに揺れる4人の関係は結果的に、ナタリーを自らの意志で米国に帰国させることになり、彼女が混みあった大通りを画面奥からカメラの方に向かって歩く、というカットで幕を閉じる。このスローモーションを使ったカットでは、映画の中で唯一、4人の関係の外らしい外が描かれている。ナタリーとすれ違った男たちがにやけながら振り返るという些細な「外」ではあるが、ここでようやく彼女と共に映画が地に足をつけたとでもいえる力強さが生まれるのだ。
それまでに描かれた4人の閉じた関係とは、互いに互いを規定しあった単純なパズルのような関係であり、舞台で観る芝居としては面白いのかもしれないが、それを見ても上手いなぁという感想がもれる程度にとどまる。見所といえば、些細なきっかけでジュード・ロウとの別れを決意するナタリー・ポートマンの表情の変化や彼女のストリップなどの七変化であり、それゆえにこの映画は2人のスターを差し置いてナタリー・ポートマンの映画となっている。だからラストカットは正しい。未熟と成熟の境界線にいるナタリー・ポートマンを見ることにおいて『クローサー』は薦められてよい。