少女の地獄旅か?

tido2005-06-11

原題のまま「回文」じゃ確かに人が入らないだろうと思うけど、このタイトルのもつ意味は強く映画に反映されているように思う。ストーリー自体が回文のように構成されていることもそうだが、アビバが属することになる2つの対照的な「家庭」が、実はよく似ているといったことを暴く、その演出など、トッド・ソロンズの突出した才能が発揮されている。細かいところにも回文的な意識が刻印されている。それは登場人物の名前だったり振る舞いであったり安っぽい哲学だったりするだろう。
いわゆるキリスト教の一派におけるボーン・アゲインみたいな考え方や人工中絶を否定する人たちの小さな抵抗などが描かれたりするけれど、なぜか彼らが自動化しているように見えてしまうのはやはり演出の妙に違いない。一方、純真さは残酷なまでに純真に描かれるあまり、トッド・ソロンズも言っている*1ように見る側の方にとまどいや留保の意識が生じてしまう、ということがある。そういった場面を見ていると、映画の方が自分たちを見ているかのように、視線がすべてはね返されるのである。この映画をありのまま観ることが果たして可能だろうか?
その疑問は、8人のアビバについても言える。同じアビバという少女を8人の別々の女優が演じるということ。そこで知らず知らずのうちに映画が内包した外見至上主義が試されている。アビバの表情、語り口、佇まい、動き……厳密に言えばそれは演じる者によってまったく異なっている。けれど、AVIVAは文字通りAVIVAだった。いや、名前を変えようがそれは「アビバ」なのである。そもそも、8人の内、特定の1人をアビバとすることはできようか。43歳のジェニファー・ジェイソン・リーが少女アビバを演じること。すばらしい表情と語り口。
最後の場面では、すべてのアビバが一瞬のうちに次々と入れ替わって現れ、冒頭に出たちょっと舌足らずな黒人少女アビバで幕が閉じられる時、確かに回文が完成するわけであるが、よくよく考えてみると、この映画が本当に回文=「変わらないこと」を信じているのかといえばそうではない気もするのである。例えば、ロリコン容疑のマークがアビバに語る「人は結局のところ変われない」という哲学の説得力のなさ。実際に変わろうとして、あるいは変わろうと思っているのに変われない不幸な人々。そういった人々のもがきの背後で回文という形式はどこか空転しているかのように感じる。確かに自動化されているような人たちは回文という形式から逃れられないし、逃れようともしない。それは異質に見える。
だが、映画で中心的に映されている人々は回文という形式の中でもがいているし、アビバは遍歴する。アビバの旅はちょっとした地獄旅である。外見を入れ替えながら地獄旅する少女は、回文=「変わらないこと」という形式の中にぽっかり空いた何でもない虚を漂い、そこで形式に回収できない何かを映画において刻んでいたのだ。これは自分の人生に風穴を空けられそうなやばい映画である。

*1:パンフレットのインタビュー参照。