新宿の深みへ

ちょっとしたイベントにかかわっていることもあって、用事のついでにレズビアン・ストリップショーをタダ観した。スペクタクル! 迫力のあるショーだった。剣と松明の舞がなされたり、狭い舞台上で5人が絡み合ったりする様は圧巻。三文ストリップではなく完成されたショーだった。
ところで、あまり関係ない話だが、家に帰ってから近くのセブンイレブンに行ったら何かの雑誌の巻頭グラビアに夕樹舞子が出ていてなつかしかった。3万円の超豪華写真集が出るらしい。彼女もすでに26、7歳か……。ふと思い出すのは、昔もっていた写真集で逆光のショットがあるのだけれど、はっきり分かるぐらい長めの腕毛が光を浴びていて、そういうところも含めて夕樹舞子が好きだったということだ。
ストリップの後、もともと映画を観る予定だったのだけど、時間が余っていたし、なぜか強気になっていたこともあってゴールデン街へ一杯ひっかけに行ってみた。ひとりで行くのは少々勇気が必要だったけど、前から気になっていた店だったので思いきった。早い時間なのでショットバー形式でビール一杯1000円で小1時間ほど。客もいなくて、ママさんもまだ来ておらず、バイトの人だけでちょっと気まずかった。ゴールデン街についての話など。そういえば猫はいた。すぐひざに乗ってきて、可愛がってやった。ゴールデン街では多くの猫が餌付けされているというとのことである。名刺をもらって店を出た。
続いて、昨日からすでに観ようと思っていた園子温の新作を目当てにテアトル新宿に向かったら、いつもと雰囲気が違っていてレイトショーのチケットを求めると立ち見だと言われ、園子温の新作でまさかと思ったら案の定イベントにぶつかっていた。園監督、田中哲司*1オダギリジョーが来るらしい。普通ならアルコールも入っていたしさすがに立ち見はきついなと思ったところだけど、今夜は勢いがついていたのでもちろん即買い。たくさんの女の子たちの行列に紛れて舞台挨拶*2と映画を観た。

自意識への距離感。園子温の映画を観る時に注目するのは、疾走感と共に「俺、俺、俺」という自意識との距離なのであるが、自意識の徹底を逆手にとった初期の傑作から商業的な枠組みへ接近しつつ、『うつしみ』や『自殺サークル』などを経て、しかし合間に秀逸なバカ映画を撮りつつ、ここに来てまたもや自主映画的なものへ回帰したかのような映画をつくった。実際には、『夢の中へ』は2年前ぐらいにつくっていて、しかも『ハザード』の後に撮った作品らしいので、田中哲司オダギリジョーの組み合わせを含めて映画制作における時系列は逆になる。
自主映画っぽさへの回帰は、まず明らかに低予算ということと、仲間たちの空気感、手作り傾向に表れているのだが、単に初期の傑作に戻っているわけではない。確かに『ハザード』を撮ったことで長回しの徹底が手法化されたと言う通り、ほとんどワンシーン、ワンカットの芝居重視が見所なのであるが、初期の8ミリでもそういった長回しはめずらしくなかったはず。『夢の中へ』は自由な、ともすれば行き過ぎの芝居が破綻しないところで映画を構成し、夢と現実の3階層を移行することが繰り返されることによって、単なるダメ男の自意識の物語が鮮やかに駆動するのである。
大胆なカメラワークが映す東京と田舎(山梨の赤坂)、密室と屋外、昼と夜、自分の家と女の家、電車の中と外から見た電車……。長回しの固定ショットが凝視する人物はしだいに風景に溶け込むが、園子温の(いや、実際には映り込まないように監督が現場を離れていることもあるらしいのだが)あまりにも機敏すぎるカメラワークは、芝居の映画でありながら、風景と一緒に人物を粒子のように断片化させているかのようである。
だからこそなのか、ラストにやはり「疾走」はあるけれど、突如主観ショット*3と様々なイメージが混在し、再び走る主人公(田中哲司)を正面からとらえ、「夢の中へ」を歌いながら彼は失速してゆくのだった。つまり、これは疾走する映画なのではなく、疾走を終える映画なのだった。そうしてみると、これより前に撮られた『ハザード』、そして今後の園子温映画の展開が気になってくる。
園子温がもって来たのか、映画館で詩集『東京ガガガ』を定価2000円のところ1000円で売っていたので購入した。アマゾンに出ていないな。
参考→http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/9670/gagaga/densetsu.html

*1:そういえば「TVBros」は美空ひばりだけでなく、田中哲司の特集もやっていたな。

*2:結局、他のキャストも大勢壇上に上がった。

*3:寺山修司の『書を捨てよ町へ出よう』の逆主観ショット=疾走する人物の背中からの見た目ショットの真逆である。