第14回 東京国際レズビアン&ゲイ映画祭@青山スパイラルホール

tido2005-07-15

知人のゲイ2人と共に行ってきた。5時台の回はそうでもなかったけど、7時台の回になるとほぼ満席。場内の熱がすごい。立ち見もちらほら。時折、笑いの大合唱で映画の音声が掻き消されるほどの過熱ぶりが見られた。3作観るつもりだったけど、本日最終回に予定されていた『シュガー』は後に渋谷の映画館(たぶんシネマライズだった→訂正。9月10日より渋谷シネ・ラ・セットだった)で公開するらしいので、2作で切り上げて、上映後は近くのお好み焼き屋で軽く盃。表参道にしては安い店だった。以下は映画について。

これは関係性を描いた映画としては良作、いや傑作である。中心となる登場人物は5人。女1人に、男4人。女はまあ普通の容貌、男はみんなタイプは異なるが美しい容貌のゲイだ。5人はニューヨークにあるカフェでアルバイトをしている。映画は終始、彼らの仕事場での会話、アフターでのバーやハッテン場での会話、それぞれの情事での会話を延々と描く。
驚くべきことに、カメラはほとんどバストサイズ以上に引きになることはなく、この凄まじい量とスピードの会話とさりげない仕草を機敏にとらえ続け、ユーモラスに、時に感傷的に人間模様の関係性を見つめている。DVはそれに適して最大限の機能を果たしている。色調の褪せた感じは物足りなくはあったけど、結果的に画面づくりは、主題と密接な関係を結んでいることを説得的に示している。
物語を簡単に説明しよう。冒頭はなぜかホラー映画タッチで男が部屋に入ってくるところから始まる。暗闇の中を歩く男が電気を付けた時に見たものは……同棲していた男の浮気現場だった。ここでタイトル。この後に、冒頭の男が件のカフェのアルバイトとして採用されるシーンがくる。男は小説を書いている。カフェのバイトは失恋の痛手を忘れるため、小説執筆に向けて視野を広げるため、ということが会話からうかがえる。女はこの男と古い友人である。女は女優を目指しているが、もうけっこうな年になりつつあり、男にも飢えている。が、そういった相談ができるのはゲイの男のみ。ストレートの男との付き合いはうまくいかない。他のメンバー。ひとりの男はオネエのゲイ。口を開けばいい男とセックスの話題ばかり。仕事の後に行くバーやハッテン場で良い男を拾ってはセックスして、その話を仲間に聞かせる。もうひとりは、うぶな男。役者を目指す彼は27歳だが22歳と偽ってネットで真実の出会いを探している。セックスより愛情だと思っている。もうひとりは性格の悪い美青年。彼は男を魅了するが、行きずりの関係のみを望み、恋愛感情を退ける。
失恋の主人公はその中の人間模様にもまれながら、性格の悪い美青年にフェラチオされ、セックスする関係になる。セックスが失恋の痛みを和らげる。行きずりの関係と分かっている。しかし、相手にセフレがたくさんいることを意識すると心痛を覚える。2人は正直な感情を告げる。仲間たちの煽り、アドバイス、ただのひがみ……様々な感情が渦巻く。それぞれの恋が生まれては潰え、生まれては潰え、その中で自分たちの生きる道を発見していく。もがく。煩悶する。泣く。怒る。泥酔する。悪女になる。質の悪い客にスープをぶちまける。セックスなしのデートをする。路上でキスする。旅立つ決心をする。一緒に行く決心をする。ここでは何かが系統立てて語られるのではなく、圧倒的な会話と共にある関係性が描かれるのみだ。ゆえに、物語られている印象がまったく湧かない。ごく自然に人と人が関わり合っていて、その関係性の力学が自ずと次なる反応を呼び起こすという不思議。この当たり前の不思議に気づかされる。
ラストシーン。旅立とうとする男のもとへ走ってくる男。見送りに来るという話だった。待っていた男は「ずいぶん遅いな」と言う。それへの答えは「荷物をまとめていたから」。待つ男の顔が笑顔になる。2で車に乗り込む。走り出す車。画面の奥へと走っていく車を固定ショットでとらえている。そのまま街の遠景が残される。最後になって初めて、ごく自然に引きの画面が出現することの爽快感。傑作。

  • タッチ・オブ・ピンク(監督:イアン=イクバル・ラシード、出演:カイル・マクラクランetc/カナダ、イギリス)

脚本の妙。複雑なプロットを見事に整理した上質なロマンティック・コメディ。
最初の15分は煙に巻かれたかのように話の流れがつかめないのだが、それが作品の価値を貶めるのではなく、逆に時間の経過と共に少しずつ流れが汲み取れるような構成がうまく機能している。疑問は一気に氷解するのではなく、物語の過程と共に少しずつ解け、最後にすべて分かる仕組みとなっている。このような感覚はめずらしい。最近の映画にはあまりない傾向である。
また、物語的展開に起伏はあるのだが、その描写にあまり緩急はない。ただ淡々と同じテンポで綴られる。しかし、それが退屈ではない。なぜなら、終始ちょっとしたズレによるユーモアが連打されていて、自然な笑いが生じるからだ。このズレの感覚が絶妙なのだ。それは冒頭からすでに用意されている。『ツイン・ピークス』のカイル・マクラクランが夜景をバックに優雅な佇まいで登場してきて最初に言う台詞は「ケーリー・グラントです」なのだから。カイル・マクラクランケーリー・グラントがなんと、イスラム教徒の厳格な母を持ち、ケニア生まれのインド系二世で、ロンドンで恋人の男と同棲しているゲイの主人公が幼い頃に創り出した妄想的な対象として終始画面上に存在しているのだ。
物語はといえば、カナダのトロントで親戚たちと暮らす主人公の母がロンドンの息子のもとを急に訪問するエピソードを中心として、その騒動から離反、葛藤、和解まで描かれることとなる。母は甥の盛大な結婚式に際して、イスラム教徒的上流階級の社交の場で息子のことを訊ねられ、見栄を張って婚約話などを披露する。しかし、母はその昔、息子を捨ても同然で置き去りにした経緯があり、また夫を亡くしてかなり時間も経っていて、虚栄に包まれた身内は大勢いても、本音で接することのできる家族がいない孤独の身なのである。甥の結婚式で悔しい思いをした彼女は、急遽ロンドンの息子を訪れる決心をするのだった。一方、主人公はロンドンの自由な空気の中で最良の恋人と暮らしている。恋人の両親にも公認の仲だ。そんな中、母が訪れてくるという突然の事態に、心の底ではすべて打ち明けたいと願っていても、まず理解が得られるはずもないだろうという確信から隠蔽工作に奔走する。その騒動の中で恋人との仲にもひびが入る。結果的に真実を知ってしまった母は、傷心でロンドンを後にする。主人公は孤独になる。その後、甥の結婚式の日時が近づき、主人公はトロントの母のもとへ帰る。そこでまたちょっとしたエピソードが披露され、離反していたロンドンの恋人がトロントにやってくる。この後、破局的な大団円がある。涙と笑いの最高のシーンだ。
ちょっと力技でねじ伏せられた感もあるが、それまでの展開がうまいから映画に興じることができる。すごい脚本だ。大団円の後、美しいカットと共に示されるのは、妄想ケーリー・グラントとの別れ。これも良い。実は主人公の母、若い頃にドリス・デイに憧れ、女優になりたいと思っていた。そのことが息子の妄想ケーリー・グラントと間接的につながってもいるのだが、厳格な母がしだいに美しい表情を取り戻し、しだいに「女優」になっていく過程としてもとらえられる。また、母のインド系としての意識が、かつてのイギリスの植民地政策、すなわちロンドンへの嫌悪と結びついていて、これがユーモアに反転しているのが素晴らしい。もっとも、ロンドンへの嫌悪感は映画好きだった夢見る女優としての憧憬とも結びついている。
上映作品中ではこの映画のみ、会場にてDVDも販売されていた。外国人がたくさん買っているように思えたけど、上映中の外国人の爆笑もすごかった。笑うポイントは確かに日本人と違っていた。これぐらいの水準の作品がひしめいているのならば、できる限り観に行かねばなるまい。映画祭は月曜まで。月曜のクロージング。プレゼンターとしてインリン・オブ・ジョイトイが来るらしい。生インリン見たいなぁ。