ファーストデー

時代劇だけあって少し年齢層も高めだった『蝉しぐれ』には、予告を観て期待を寄せていたのだが、結論から言えば裏切られてしまった。しかも隣の高齢者は呼吸が荒く、感動のシーンではパンの袋をがさごそまさぐり鬱陶しくて仕方なかった。これなら隣でナチョスの強烈な臭いをかがされている方がマシだ。それにしても老人はなぜ映画の途中でパンを食うのだろうか? 朝一で新文芸座などに行っても、老人のパン食いには頻繁に出くわす。

丹念に撮られているのがよくわかる素晴らしいロケーションと細部まで意識が行き届いた画面構成などに好感触を覚え、不器用な感のある青年たちの振る舞いにもそれはそれでリアリズムが感じられ、前半は本当に素晴らしい映画だと思えた。特に、主人公の青年が流し続ける汗と常に力んだ表情が魅力的で、それと共に少女の丸い目に特徴づけられる眼差しも良かった。2人の気持ちを遮るものとして障子や成長した稲が効果的に配置されるわけだが、むしろこれらのものが完全に2人を遮っているわけではなく、薄く隔てているだけだという暖かさを示しているように感じられ、終始心地よい時間を堪能できた。しかし、それは前半まで。
歳月の流れと共に後半になり、成長した青年として市川染五郎が登場するシーンと共に画面は途端に虚構性を増す。それまで丹念に描かれていた小さな藩内での「生活」が、江戸との間で政治的謀略に巻き込まれるなどして物語的に浸食されるだけでなく、殺陣シーンにおいても円月殺法まがいの必殺が出てきたり、彼ら自身が悪いわけではないが今田耕司ふかわりょう市川染五郎の友人として登場したり、挙げ句、あれほど素晴らしい眼差しを画面に刻んでいた少女が木村佳乃になっていたり、明らかな転調が起こってしまうのである。それは確実に悪い転調であった。同時に、それまで緊張を孕んでいた画面も途端に緩み始めた。前半で「間」だったものが「余り」になっていた。これを裏切りと言わずになんと言おう。
この映画に関してはやはりミスキャストだと思う。これは藩の小さな物語として、無名あるいは無名に近い人たちで描かれるべきものだろう。そういえば、阿部和重の最新対談集をついこの前読んだのだが、確か保坂和志との対談で、小説において物語世界の規模みたいな話をしていて、その中で藤沢周平の「藩」という規模は何かを語るのにぎりぎりの大きさだ、という話が交わされていたと思うのだが、すでにその本をアマゾンマーケットプレイスで売りさばいてしまったので今ではその「何か」が何だったのか確認できない。