新しい70年代

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3月に中野で行われるこのお芝居に写真撮影などでかかわっているのだが、今日は初めて途中までの通しを観せてもらえた。これまでも撮影の手伝いをしてきて毎回公演を観て来たけど、今回は本当に声を大にしてこの芝居を広くいろんな人にお勧めしたい。もちろん身内意識とかじゃない。

HPのあらすじを見てもらえれば分かるけど、この芝居は「津山三十人殺し」と「コロンバイン事件」にインスパイアされているという挑戦的なものだ。だけど、実際に芝居を観れば、おそらくそんなことは頭から飛んでしまうだろう。そこにあるのは聖と俗を行き来する女たちの饗宴なのだから。また、作中にちりばめられたあまたのモチーフは世界観をとてつもなく豊かにしている。本当に果敢な芝居だと思う。ほぼ同年代の人たちがつくっているということに嫉妬せざるをえない。

それに加えて、今日の通しで新たな発見をした。これは「新しい70年代」をやっているのだ、という確信を得たのだ。この日記に触発されて来場する人が少しでもいればいいと思う期待心から、あまり露骨にネタを明かしたくないけど、この物語はある意味で70年代的な「修羅」や「冥府魔道」の物語なのだ。舞台となるのはユートピア的な山奥の農村ではあるが、70年代的な「地獄旅」の向きもある。ただし、その70年代的なるものをそのままやってもどこか滑稽になってしまうだろう。ある一面での『キル・ビル』のように。

しかし、この芝居はそうではない。その証拠に、今日の通し稽古のラストを目にしたぼくは危うく涙しそうになってしまった。たぶん、周りが暗かったら泣いてしまっただろう。スタッフとしてかかわって、そこまで感情を揺さぶられることなどまったくないのに……不覚にも自分自身に動揺してしまった。それは役者の芝居によるものではあるけど、それよりも、70年代的なものをさらに超えようとした瞬間を目撃したことに起因する。70年代的な「修羅」や「冥府魔道」ならば、まさにこの前のフィギュアスケートの裏番組でテレ東が放映していた梶芽衣子主演の『修羅雪姫』のごとく、感情を封印したサイボーグになるしかない。だからこそ、『修羅雪姫』のラストで梶芽衣子が雪にうずくまって嗚咽するところに、情念のほとばしりを逆説的に見出し、心揺さぶられる。

「不肖ノ使徒タチ」においては、70年代的なものは「鬼」や「狼」によって体現される。だけど、みんながみんなそうなっているわけではない。パラレルワールド的な戦後という「砂漠」の中で、生き生きとしている女たちがいるかと思えば、無垢な少年もいる。そして、聖と俗、ユートピアと地獄、人間と鬼……がひとりひとりの中で交錯する。その果てには「新しい70年代的なもの」が垣間見えるだろう。例えば、塩田明彦の映画『カナリア』のように。

忘れてはならないのは、そのような不可能性を体現する役者がこの芝居には集まっているということ。それがなければ濃度の高い場面に何のリアリティも感じられなかったに違いない。ぼく自身、3月16日からの公演をもっとも楽しみにしているのだ。興味をもったらぜひ足を運んでもらいたい。なんせ至るところに「萌えポイント」もあるのだから。(ぼくのところに連絡してくれても、ちゃんと取り次ぎます)