空間の消失

まるでカメラのとらえるショットが世界のすべてであるかのようなこの映画は、監督の出自のままに明らかに映画的ではない。それぞれのカットが孤立しているかのようであり、実際には広がりをもつロケーションであるにもかかわらず空間的な広がりがまったく感じられない。その画面の多くを占めるであろう空は、ほとんどが真っ白な曇り空であり、まるで何もない空間に、露出を空にあわせているがゆえに陰った人物の顔が浮かび上がる。17年後の後半部分も、曇り空が何もない部屋の白い壁へと変わるだけだ。
少ない登場人物は横からとらえられるばかりで、互いに「好きだ」と言えない男女の関係性を描いた物語であるにもかかわらず、視線劇はまったくといっていいほど見られない。真っ白の背景、横からとらえられる人物のアップ。このようなショットがたびたび登場するが、しばらく画面を見ていると、その先に相手がいるのかさえ不安になってくるほど、この映画は孤立感に取り憑かれている。
例えば、その微妙な関係が煮詰まったすえに、宮崎あおい瑛太に何の劇的瞬間もなくキスして、まもなく自分から泣き出してしまう場面がある。アップでとらえられた宮崎あおい瑛太にキスする際、2人が画面にとらえられるのではなく、宮崎あおいが画面の外に出てしまい、そして再び戻ってくるという形になっている。2人の距離を縮めるはずだったキスは、互いの孤立を際立たせる寂しいキスでしかなかった。そのことを孤独なショットがそのままに物語っているのだ。
つまり、映画的ではないことが、このささやかな物語の世界をうまく描いているのである。リアルな関係性を描こうとして疑似ドキュメンタリーのような手法を用いているにもかかわらず、まったくそうなっていないというのは面白い。監督自ら2台のうち1台のカメラを担当しているのに、カメラにそれほど人称性が宿っていないように見えるのである。最初に言ったように、カメラのとらえたショットが世界のすべてであるかのようなある種の潔さが、とてつもない孤独感を際立たせ、ショットの外にあるはずの空間は消失する。後半の17年後の物語が始まっても、孤独感は持続していて、物語上は2人が前半の2人だと分かるようになっていても、画面上は断絶ばかりが支配しているように思える。
いや、この映画の物語になど意味があるのだろうか、とさえ思える。「好きだ」と言えなかった2人が17年を経て、ある出来事をきっかけにしてようやく「好きだ」と言う、という明快な物語は用意された枠でしかない。実際、宮崎あおい演じる少女が「好きだ」と言えなくなるきっかけは、あまりに物語的であり、関係性のリアルさを描くには邪魔な設定ではないかと思う。『セカチュー』的な話ならまだしも。だけど、この映画を観ていて邪魔な設定はむしろ機能していない。あまりに画面を支配する孤独さが強すぎて、そんな些細なことに考慮が働かないのである。それに考えてみれば、永作博美があの場面で「好きだ」と言うのはおかしい気もする。単に女性がそういう言葉遣いをするかどうかという次元の問題だが……
ともかく、不思議な映画だ。CF的なセンスは実を言うとあまり好きじゃないし、興味ももてないのだが、この映画においては、いくつかの場面はよくテレビCMで目にするような画面であっても、むしろそのようなセンスが独自の世界観を紡ぎ出すように機能していて、少なくとも薄っぺらい印象は受けなかった。物語に期待すると裏切られるだろうが……