善人ぶるな

ナルニア国物語』が近所のシネコンのスクリーンを4つも占領したせいで、割安のレイトショーで観られない映画が増えてしまった。これはテロリズムに近い。学生でない今、一般料金とレイトショーは600円も違うのだ。
そんな小さな怒りを胸に『力道山』を観たわけだが、映画自体はそれほどたいしたものではないと言えよう。誤解なきように言えば、よくある伝記モノのつくりで、韓国資本のためかクオリティは高いので、間違いなく楽しめるのは確かだが、物語や切り口などがとりわけ目を引くわけではなかった、ということだ。
しかし、劇映画を重視し、フィクションとして味付けしている部分がかなり含まれていることもそうであるが、なんといっても迫力のプロレスシーンにおいて、この映画が宿す熱は沸点に達する。『殺人の追憶』の撮影監督キム・ヒョングによる絶妙な陰影の中、すべて本人が実際にやっているというソル・ギョングの動作、佇まい、表情が凄まじい。チェ・ミンシクのストレートな迫力と比べて、ソル・ギョングはあまり表面に感情などが透けないタイプであるが、あの細い目だけ見ても、そこに宿っているものの凄まじさが伝わってくる。
さらに、物語の中でポイントとなる各場面での動作。それは土下座など日本人的な動作でありながら、ソル・ギョングの映画に向けてつくられた肉体の過剰さが、日本人的なものに収まりきらず、これまで様々なドラマや映画で見てきたようなそんな光景をまるで違うものとしてしまうだろう。何に感動しているか分からないまま、その圧倒的な過剰さに心を揺さぶられてしまう。力道山のデビュー戦を再現した試合では、敗戦以降意気消沈していた人々に、日本人が白人の攻撃に耐え、空手チョップで圧倒するという「物語」の感動を追体験できるのだが、実はそれよりもソル・ギョングの演じる力道山の過剰な姿にただ圧倒されてしまうことがダイレクトに感情を揺さぶるのではないかと思う。それぐらいにこの俳優は異質である。
ぼくはもちろん力道山を見たことがないし、力道山にまつわることもほとんど知らない。しかし、ソル・ギョングが体現した「力道山」は敗北が許されない切迫感、笑うことさえ許されない抑圧、引退のないヒーローであり続ける孤独、そして朝鮮人であることをスクリーンにおいて確かに存在させた。そのことだけでもこの映画を観る価値はあるというものだ。
橋本真也の元気な姿を、しかも後半はレスラー(前半は横綱)としてリングの上で見られるというのも貴重かもしれない。