怠惰な夢

新宿でポツドールの芝居『夢の城』を観る。
先週の「SPA!」には作・演出の三浦大輔が出ていたし、知り合いで観に行った人が、まだネットでチケットとれると言っていたので、数年前に1度観たきりだったが行ってみた。
なかなか面白かった。とある1Kの部屋でギャル&ギャル男ふうの若者8人が過ごす様子を延々と眺めるだけ、というのがこの芝居のすべてである。しかも、最初の場面では客席と役者たちのいる部屋とをガラス窓が隔てていて、会話や物音がほぼ完全に遮断されている。そして、1度目の暗転。スクリーンにタイトルが映し出され、デモみたいなのが終わり、次の場面へ。窓はない。さて、一体どんな会話がなされるんだろう?
窓越しに騒ぐ姿を観た後のちょっとした興味をスルーして、その後、会話は一切なされない。会話してるっぽい感じは見られないでもないが、ささやかなジェスチャー程度であり、その声が観客に届くことはない。観客の耳に入ってくるのは男の荒い息づかいと女のあえぎ声、そしてテレビの画面から流れる音だけである。結局、最初の興味を延々と引きずられ、最初の言葉はいつ発されるのかと思っていたら、そのまま幕は閉じてしまったわけだ。
もちろん、エロに関してもそういった不全感を味わうことになる。日常の中での単なる反復の動作=作業としての描かれ方は徹底していて、登場人物の動物性を究極的に全面に押し出している。もっとも、自分自身の動物性も暴かれるようで、ちょっと居心地の悪い思いもした。劇中ほぼずっとテレビの前に陣取って「実況パワフルプロ野球」をやっている男がいるのだが、ぼく自身も今「ペナントモード」をやっているせいか、それほど楽しくないのにあと1試合…あと1試合…とついつい無駄な時間を過ごしてしまっているのだった。
この芝居を観て感動した、とかはまずないだろうけど、こういった芝居があってもいいんじゃないかと思う。新作を観るために映画館に通っていると、感動感動感動……とそればかりを全面に出した予告編のオンパレードで嫌になっていたところだ。オリンピックだって、普段の深夜中継を見ていたら淡々としていて反覚醒状態で見るのにもってこいなのに、朝になると過剰な物語化によってうるさくなってしまう。要はバランスだ。なんだかわけの分からない結論になってしまった。