1995年のトンネル

  • 彗星まち(監督/脚本:今岡信治、撮影:鈴木一博、出演:岡田智弘etc)

DVDにて。劇場公開時のタイトルは『獣たちの性宴 イクときいっしょ』。
黒みの挿入やトンネルなど、随所に神代辰巳的なものが盛り込まれた本作は、阪神大震災地下鉄サリン事件、そして神代辰巳の死があった1995年に世に出たわけであるが、低予算・短時間で制作されるピンク映画だけあって、そんな時代の空気を強く反映していると思われる。
それは平坦な日常の中で空を眺めながら彗星を待つ、という主人公に象徴される。冒頭、500回もセックスした女が新しい男のもとへ引っ越すシーンから始まり、それにナレーションとも台詞ともつかない主人公の声がかぶせられる。「アイコはワキガなんだ。くさいんだ。くさいのがよかったんだ」未練たらしくつぶやきながら、そのそばで淡々と荷物を運ぶ女と新しい男。そんな人間たちが特にドラマを展開するわけでもなく、ただ、くっつきはなれ、セックスし、歩き、戯れている。いや、かろうじてそこにドラマはあるのだが、常に半笑い状態というか、世界に対して中途半端な態度を維持しているためか、感情移入するようなドラマはない、といった感じである。
岡崎京子の『リバーズ・エッジ』のように川のほとりに死体を発見して、挙げ句に女や前の女とその男と一緒に死体を燃やし、朝になって川に飛び込んで、さらには前の恋人を連れて海へ行き、焼身自殺を図るといった「非日常」を繰り返しながらも、映画から平坦さが奪われることはない。そして、物語レベルにおいてもやはり日常性は反復する。その磁場の強さは、例えば次のエピソードからも分かる。主人公から女を奪った男は妻子がありながら、借金まみれで家を出て同棲しているというダメ人間である。競艇とセックス。そんな男が競艇で大金をつかみ、女に別れを切り出す。借金を返して、妻子と真面目にやり直したいから出て行ってもいいですか? 女は「マジになんなよ、ばーか」と言って、飯を食いながら独り言をつぶやく。部屋の熱さが常に伝わってくる演出がとてもいい。その熱さにも投影されている日常性の磁場は「マジになる」ことを許さない。熱さのせいでダレてしまうのと同じように、熱くなったそばから「なーんてね」的な自嘲が要請されるのだ。
しかし、主人公はその中で要請にしたがった生き方をしながらも、常に彗星を待っている。何かが変わることを待っている。徹底した平坦さの裏に透けて見えるものが、この映画をつまらないものにはしていないのだ。ラスト、海辺に座った男と女2人が彗星を空に見て、海に入って行く。映画の中で主人公たちが何度か「ぱぱんがぱん」とふざけるのだが、何度やっても決して「だーれが殺したクック・ロビン」にはいかない。そしてスタッフロールの時の「ぱぱんがぱん」も反復されるにとどまる。しかし、それはしだいに声が大きくなり増幅される「ぱぱんがぱん」だった。平坦さに宿る意志、それが1995年のトンネルを抜けた後にあったのだろうか。
そういえば、林由美香もちょっとだけ出演していた。また、DVDに所収の自主映画『汗ばむ破壊者』は衝動のままのすごい映画だった。