衝撃の映画

前者は映画監督に著作権がないということを問題提起したドキュメンタリーである。新文芸座にて一般初公開。日本映画監督協会の面々が勢揃い。いろいろと趣向も凝らされていてかなり面白かった。
しかし、その後に観た『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の衝撃の前に印象が薄れてしまった。今日まで都内では東劇でしか上映されていなかった*1ので、これを観るためだけに東銀座まで行くことになったが、期待以上の濃厚な映画だった。
タイトルがタイトルだけに冒頭の意味ありげな長回しが暴力を予感させ、当然、その後のショットで暴力が示されるわけだが、ここでは直接的な瞬間は回避されている。このシーンが冒頭にあることによって、一見平和に見える前半のシーンがすべて歪んで見えるようになる。
片田舎の町、町外れに住む仲の良い4人家族。事件が起こるまでは日常が描かれているのだが、小さな各エピソードの描き方は絶妙である。ちなみに、この映画の原作はVERTIGOのコミックであり、劇場に翻訳版が販売されていたので買って読んだのだが、映画で描かれる前半の日常部分はコミックに全くない。コミック全体を通しても映画とはかなり違った印象である。その日常描写の「歪み」、これは言葉にしにくいが、台詞や編集によって周到にコントロールされていることがうかがえる。フーパーの『悪魔のいけにえ』やスピルバーグの『宇宙戦争』の冒頭の描き方のような不穏さに似ているが、クローネンバーグの手つきはまた少し違う。
前者の場合は巧みではあるが、その後に予感されているものが何なのか漠然と分かる気がする。しかし、本作の場合、何が予感されているのかあまりにも漠然としすぎている気がする。確かに、タイトルや最初のワンシーンによって「暴力」というものが予感されてはいるのだが、その後の日常描写の歪みはそれに忠実に沿っているというわけではない。いじめを回避する息子の台詞、夫婦のコスプレセックス。もしかするとそれらはやがて訪れる暴力に対置される「平穏」なのかもしれないが、それだけに収まりきらない余剰が感じられ、不安を覚える。そんな不安は胸が躍る感覚に似ていて、この映画を面白いと思わせる。風景や静けさが西部劇にも似ているため、そんな錯覚もあるのかもしれない。
そして事件は起こる。圧倒的な暴力。やはり予感は的中するのだ。しかし、描写は禁欲的でもある。悪党のナイフがヴィゴ・モーテンセン演じる男のつま先に刺さり、彼が放った銃弾は悪党の顎を吹き飛ばし血がゴボゴボ吹き出す様が一瞬とらえられる。その瞬間的なアクションは西部劇のようだが、暴力の痕跡の撮り方は異質である。そして第二の暴力。この場面でも圧倒的でありながら禁欲的な暴力描写がある。そして暴力の感染。平和主義的な息子に暴力が感染してしまってからのヴィゴ・モーテンセンの表情と佇まいが凄まじい。まるで蝋人形のようであり、半開きの口でゆっくり歩く様はゾンビである。
この後、妻の台詞のように多重人格を思わせる男の「ヒストリー」が明かされてゆくのだが、同時に物語も広がってゆく。まるで冒頭の曖昧な予感が多方向的に広がってゆくという感じだ。夫婦、そして家族の物語、男の過去の清算、これらが死人のような男を中心に語られる。画面は静謐でありながら、ふと思い出したかのように強いショックに見舞われる。それはほとんど暴力ではあるが、夫を信じられなくなった妻がちょっとしたきっかけで激しいセックスを行い、しかしだからといって関係が回復しないという描写もある。前半の激しいコスプレセックスを見せられているだけに、この場面の衝撃は強い。さすがクローネンバーグと言いたくなる。
暴力によって血塗られた過去(その過去は台詞の中でしか出てこない)を再び暴力によって清算した男。男は家族のもとに帰る。切れ目なく流れるBGMの曖昧な旋律。男は家族、妻に受け入れられるのだろうか。しかし、暴力の過去はなかったことにならない。すっかり過去を葬り去って生きてきた彼はこうして再び暴力に直面することとなったのだ。そして今度は家族も巻き込んだ。ラストのマリア・ベロ演じる妻の表情は決して忘れられない。

*1:25日以降は吉祥寺とか豊島園で上映されるみたいだ。