アメリカの後ろめたさの浄化

湾岸戦争から現在へ。映画自体の出来がどうかといえば、何の留保もなくすごいと言えるものではないだろう。冒頭で暗視スコープを通した湾岸戦争の映像が目まぐるしく映される。静かなピアノのBGM。そういえば音楽にはブライアン・イーノがクレジットされていた。その後、エイドリアン・ブロディの演じる兵士がイラクの子供に愛想良く近づくと、子供は隠し持った銃でブロディの脳天を射撃。極端なクローズアップを除けば、それほどうるさくない演出である。
ブロディは脳天を撃たれるも奇跡的に助かる。いや、ある意味それは「死」ではあった。しかし、実際には生きて祖国に帰る。だがその途上で事件に巻き込まれ、いつの間にか精神病院に収監されている。ここで偏った考えをもつ医師は彼を実験台にする。拘束衣を着せ、ベッドに縛りつけ、真っ暗で狭い密室に閉じ込める。胎児の状況を疑似体験させることで治療を試みるのだ。この実験によって彼は恐怖や苦痛と共に能力を得る。一定時間、未来に行く事が可能になるのだ。この設定により、物語は『バタフライ・エフェクト』に似た筋道を描くことになる。だが、それはたいした話ではない。凡庸である。ただ、そこに流れる空気の重さやそれを包み込み、浄化しようとする意識みたいなものを描いていることに興味がもてた。その点において『ジャケット』はなかなか良いと思う。もちろん、キーラ・ナイトレイジェニファー・ジェイソン・リーが素晴らしいことは言うまでもない。これは余談だが、一瞬だけキーラ・ナイトレイの乳首を見ることもできる。
なぜ湾岸戦争から始まるのだろうか、と考えてみると、やはり間に9.11、アフガン戦争やイラク戦争を経て、アメリカの後ろめたさというものを意識しているのだと思う。冒頭の場面、エイドリアン・ブロディは表情を崩しておそらく本心から善意をもってイラクの子供に近づく。が、子供のテロリズム的怨念の前にはそんな善意は無に等しい。怨念の銃弾からかろうじて生き延びることで、彼=アメリカの浄化の旅が始まるのだろう。湾岸戦争の1991年から2007年まで。精神病院に収監された彼は、銃弾から結果として生き延びたのと同様、またも結果として与えられた能力によって強制的に時間を旅しなければならなくなる。こういった断片的な語り口は、多重人格ものなどでもよく見られる現代アメリカ映画の常套手段となっているが、おそらくその意味も、整然と物語れない何らかの無意識があるからに違いない。それでも真摯に物語ろうとすると『アバウト・シュミット』のような遡行の物語となるのかもしれない。
断片的な語り。しばしばこれは派手なエフェクトと共に用いられ、最大限の刺激を与える手段となっている場合もあるけど、この映画においてはひたすら重苦しく、どうにも嫌な感じがするものになっている。極端なクローズアップも生理的な不快感に結びつくような描き方で用いられる。この効果的な利用も『バタフライ・エフェクト』と似ていて好感が持てる要素だった。その断片性を「後ろめたさ」と呼んでおくとして、浄化の旅はキーラ・ナイトレイとの出会いによって探偵小説的に進められるわけだが、おそらく意図してカタルシスが回避されている。真相を握ると思われた女医や老医師との会話によってカタルシスがもたらされることはない。主人公にとっても、相手にとっても、観客にとっても。最後にあるのは、未来を知ることで自分の死を知ってしまった主人公がそれを受け入れ、間接的で見返りのない愛を残すことだった。凡庸かもしれない。しかし、冒頭のイラクの子供の怨念の銃弾への返答としてはそれ以外にないものだと思わせる。
何より彼の生=死はすべて偶然によってもたらされた。生きながらえた彼が遍歴したのは荒み切った希望のないアメリカである。劇中描かれるのはほとんど精神病院、あるいは貧しいアメリカでしかない。白い病棟、そして雪。登場人物は必要以上に「寒さ」を口にする。明らかに雪はアメリカを覆う荒廃として描かれている。だが、彼が運命(と言っておこう)を受け入れることによって、それがかろうじてジェニファー・ジェイソン・リーの演じる女医に浸透し、彼女も消極的ながら受け入れるというステップがあり、自らのどうしようもない境遇ゆえにすべてを拒絶する酒とドラッグ漬けの女にも浸透するというラストは飛躍があると思いつつも、その志はやっぱり良いものだと思う。荒廃としての雪が、娘の遊び場になるというちょっとした仕掛けもある。そこで終わっても良かったけど、きちんと「未来の変化」を描いて終わるのを観て、この映画にアメリカの良心を観たように思えたのだった。