澱みなき語りに宿るもの

tido2006-06-19

ラッセ・ハルストレムの映画には、とにかくその語り口の巧さで魅せられる。リズムが良くて物語を停滞させない。おそらくどんな題材を扱ってもある程度の映画に仕上げられるはずだ。個人的にこれまでラッセ・ハルストレムの監督作にハズレはなかった。もっとも、自分自身の撮るべき映画を自覚して的確な選択をした結果でもあるのかもしれない。
だから街頭で『カサノバ』のポスターを見て、そこにラッセ・ハルストレムの名を見つけた時は驚いた。一体どんな映画になるのか? 新宿テアトルタイムズスクエアにて鑑賞。ガラガラの大劇場で観るというのも気分が良い。
冒頭からラッセ・ハルストレム的な語りが炸裂。ああこの感覚だと久しぶりに思い出す。『シッピング・ニュース』以来だろうか。ずいぶん時間が空いたな。カメラが手紙にズームしてやがて、エフェクトと共に手紙が海に変化して……という展開にやはり澱みはない。『シッピング・ニュース』でも確か、海か湖か忘れたけど、溺れる子供のシーンから澱みのない語りが始まったはずだ。イメージの繋ぎ。テーマ的には『ショコラ』に近いものはある。けれども、この『カサノバ』においては、極端なまでに人間が形式化される。カトリック的なものの過剰さがそれと相俟ってコミカルな人間模様が繰り広げられる。この辺りはディケンズの原作をポランスキーが映画化した『オリバー・ツイスト』に通じるところがある。型にはまった形式的な人間を扱うということにおいて。
けれども、ラッセ・ハルストレムの映画が宿す爽快感はまた違う印象をも残す。この映画を上質な愛のドラマとして楽しむこともできないわけではないが、ラスト15分ほどの圧倒的な語りを目撃すると、そんな安全な処理で済ませなくなるだろう。これまで『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』や『ギルバート・グレイプ』や『サイダーハウス・ルール』などの印象の前に隠蔽されて来たかもしれないけど、あえて言うとラッセ・ハルストレム深作欣二に近いと思う。型通りの人間をうまく語るだけなら、ノイズや過剰さのない、上質で無害な映画体験を与えるだけにとどまるはずだが、ぼくはやっぱりこの監督の映画に何らかの引っかかりも覚えるのだ。そして、それが深作的な人間描写によってこそ示された余剰に近いんじゃないかと思う。
芝居は洗練された類型にとどまる部分もある。しかし、加速度的な展開の中で「芝居による猿芝居の転覆」というこの映画の決定的な瞬間を経て、結束した人物があまりに活き活きと輝き出す様は素晴らしいし、素晴らしいだけじゃなくて、もうそれまでの人物類型を内破しているとさえ思える。ある意味、芝居についてのメタ映画になっているところもある。この映画の心地良さは、それらがすべて澱みなき語りの流れのうちに体験されるところにある。
スウェーデン深作欣二を体感しよう。