札付きの鉄砲玉

tido2006-07-05

もちろん新文芸座にて。渡瀬恒彦特集。
『鉄砲玉の美学』を初体験。想像していた痛快さとは無縁だが、脚本と共に低予算のロケという状況が渡瀬恒彦の魅力を溢れさせる。スクリーンで観る渡瀬恒彦は良い意味で余す所のない存在に感じられる。勝新や若富のような過剰な身体性だったり、天知茂のような拭えない翳りだったり、高倉健鶴田浩二の禁欲的な含蓄だったり、川谷拓三や室田日出男のような脇役ならではのほとばしる強い個性だったり……そのようなものは感じられず、ただ渡瀬恒彦という人間がありのままにそこに生きているように感じられる。それが底の浅さにならず、その姿に心を奪われてしまうのは「ありのまま」が魅力的だからに他ならない。もう少し詳しく説明すると、確かに喧嘩がめちゃくちゃ強かったりとか、実生活の話もまるで映画の中の渡瀬恒彦といった感じはするけど、「ありのまま」というのは正しくないだろう。そんなふうに見えてしまうというのが重要なのだ。
何でそんなふうに見えるのだろうかと考えると、渡瀬恒彦はいつも迷わないからだと思う。劇中人物の性格ということではない。楽しみ、笑い、怒り、暴れ、泣く……そういった広い意味でのアクションにおいて渡瀬恒彦はいかなる溜めも介在させない。要するに無媒介的なのだ。ゆえに、ありのままなのだ。
『鉄砲玉の美学』では、金がなくて目先のちょっと先(目先でないところが絶妙)しか考えられず、どうしようもない状況から抜け出せない姿、100万円を手に入れた後の享楽的な姿、苛つきも楽しさもその身体、表情、言葉に刻み込まれていて、芝居しているというよりありのままに滲み出ているといった感じだ。ウサギに大量の餌を与える女に本気で怒るところや美しい女と霧島を見て鉄砲玉としての役割も忘れ、霧島に行くことばかりにとらわれるところなど、あらゆる渡瀬恒彦が素晴らしかった。刑事の銃弾を受けて血を流しながら街を疾走する渡瀬恒彦寺山修司の『書を捨てよ 町へ出よう』にあったような激しいブレのカメラワーク。さらに頭脳警察の「ふざけるんじゃねえよ」がバックで流れ、涙なしには観られない。
『暴走パニック 大激突』は何度も観た。数年前、有楽町の国際フォーラムのイベントで、深作欣二特集があった時に、毎回異なるゲストがお気に入りの深作映画をピックアップして、上映後にトークショーというものがあった。その中のある1日、ゲストは黒沢清、上映は『暴走パニック 大激突』だった。ちょうど『回路』が公開前で、ラストの船(『暴走パニック〜』はボート)で逃げるところを指して、黒沢清が「ぼくの次の映画も同じことをやってるんですよ」と言っていたのを思い出す。裏話もいろいろと出て楽しかった。それ以後、深夜テレビやビデオで何度もこの映画を観ては活力を与えてもらった。
この映画の渡瀬恒彦はありのままをひたすらアクションで見せてくれる。ぼくが特に印象深いのは、杉本美樹がつくっていた豆の煮込みを食う姿(スプーンを突き刺すかのようだ)や身を潜めるためにやっているバーテンの姿である。さりげなくも「らしさ」が宿る芝居なのだ。
この映画では渡瀬恒彦以外のキャラクターがあまりにも過剰で、息もつかせない展開で誰もが暴走してゆくので、渡瀬自身の振幅はあまり見られない。しかし、鬼気迫る室田日出男との争いや惚れ込み具合を突発的行動で示す杉本美樹との関係によって、反射的に渡瀬恒彦をうかがい知れるので、いつの間にか感情移入してしまう。あまりの暴走っぷりがバカらしくて場内が笑いに包まれる映画なのに、引いて楽しむというよりかはやっぱり映画に取り込まれてしまう。それも渡瀬的な魅力に他ならない。『暴走パニック 大激突』は渡瀬的な無媒介性がそれ自体に拡散したかのような映画であるからだ。
この日記を書きながら、ふと『ジーンズブルース』のことを思い出した。これも中島貞夫×渡瀬恒彦の傑作だった。ぼくが観たのは同じ新文芸座だが、梶芽衣子オールナイト(http://d.hatena.ne.jp/tido/20040327)でのことだった。もう2年以上経っているんだな……。あの時は梶芽衣子のことばかり考えながら観ていたけど、次々と傷を負いながらやがて死んでしまう渡瀬恒彦も印象深かった。再び観なければと思う。