神がかり的な偏執

新文芸座にて。ジェリー藤尾2本立て。
ハードボイルド映画の傑作とはいえ、ぼくにとっては退屈極まりなかった『拳銃は俺のパスポート』。『殺しの烙印』のような映画ならば心底楽しめるのだが、まったく隙のない真剣なこのハードボイルド映画は、冒頭で依頼された狙撃を成し遂げた後、ずっと痛快さのかけらもない禁欲的な逃亡劇へと移り、それはそれで興味深くはあったけど、ぼくは楽しむことができなかった。しかし、ラスト。ある意味純朴な弟分のジェリー藤尾を逃がすために、自分が犠牲となり、ひとりだけで敵の手中に飛び込む決意をした宍戸錠。このラストの対決があまりにも素晴らしくて、それまでが楽しめなかったということなど一気に吹き飛んだ。冗長さのかけらもないシンプルな対決。一瞬の勝負。正面から迫り来る車に対峙し、放たれる銃弾を浴びながらも銃を構えた姿勢を維持する宍戸錠。そして、まさに一瞬。宍戸錠の動きとカット割が素晴らしい。これを観られただけで、この映画を傑作と言い切っていいと思った。
『拳銃は俺のパスポート』で本当に足手まといな奴だなと思わせられたジェリー藤尾。その後に『偽大学生』とは……。この組み合わせは最高である。誰もがジェリー藤尾をすごいと思うんじゃないか。ぼくはテレビのジェリー藤尾という存在を全く知らないけど、鹿島茂の記述と『拳銃は俺のパスポート』を観て、そのオーバーアクションが鼻につく感じというのがなんとなくうかがえた。だからこそ、『偽大学生』という映画の絶妙なキャスティング、ジェリー藤尾しかいないという感覚も分かる気がした。
「東都大学」の受験に失敗し続けているジェリー藤尾。合格発表の掲示板を見て落胆するシーンから映画は始まる。抑制していも過剰なその表情が、何か尋常じゃないものをはらんでいることを予感させる。そしてその通りになる。事前に鹿島茂の『甦る 昭和脇役名画館』であらすじを知っていたため、もしかしたら退屈になるかもしれないと多少は危惧していたのだが、ふたを開けてみるとジェリー藤尾の一挙手一投足に終始釘付けになってしまった。偽学生の芝居がやがて本物になるということ、精神病患者の烙印が現実化すること、それが東都大学の者たち全体にも感染すること。そんな物語的な次元とシンクロして、ジェリー藤尾という存在の過剰さも反転する。中心が空っぽになる。あれほど過剰で鼻につく存在が、周囲を反映する鏡となり、ジェリー藤尾は分裂するのだ。そのつくられたかのような表情は不気味である。一方で終始違和感だけを発し続ける若尾文子がすごい。一応は状況に加担しつつも、違和感を発し続けることで一貫性を保っていた若尾文子の方が、精神病院を仮退院したジェリー藤尾の周囲の度肝を抜く演説によって覆されてしまうのだった。
加えて、増村映画のカットの切り替わりの効果もある。なぜか増村保造のさりげないカットの切り替えには息を呑まされる。若尾文子の部屋に藤巻潤が訪れ、肉体を浴する藤巻との距離を保ちながらそっぽを向く若尾文子。そんな時にカットが切り替わり、はっとさせられる。2人には決定的な差がある、同時にこの後に何かが起こる、そんな予感を抱かされる。あるいは、前述のジェリー藤尾の演説場面で、先に若尾文子が心底疲れた感じで「もうやめましょうよ」と演説をするのだが、その時、ジェリー藤尾に噛み付かれたはずの手の傷がなくなっていることが分かる。その時の手のアップに切り替わる場面にもはっとさせられる。そして、その後にジェリー藤尾による反転が実現するのだった。もちろん、傑作である。