『座頭市 血笑旅』

三隅研次監督による素晴らしい内容にまたも感動してしまった。今回の座頭市は道中で自分の身代わりに殺されてしまった女の赤ん坊を、父親の元まで送り届けるという物語である。そして『座頭市 兇状旅』以来遠ざかっていた「業」の物語が復活している。
冒頭は座頭市の歩み進める足元のアップが映されるのだが、その背景に流れるBGMがすでに「業」を思わせる重苦しいテーマを反映する。その後すぐに、座頭市の首を狙った浪人たちが誤って無関係の女を殺してしまうのだから、冒頭の予感はめくらやくざの「業」へとつながるのだった。赤ん坊という「業」を背負いながら旅する市は、しだいに赤ん坊への愛情を強めていく。続く道中で出会ったスリの女と旅を共にすることで、3人は赤ん坊を媒介して絆を強めるのだった。そう、座頭市におけるロマンスも久しぶりだ。市はスリ女を赤ん坊の世話人として雇いつつも、しだいに本心から打ち解けてゆくに連れて、2人の間に仄かな愛が生じているかのような親密さが描かれる。ここで『座頭市物語』で使われたカット・バック*1が用いられているのに注目である。だが座頭市の「業」は容易にロマンスに陥ることを許さないのだ。もう2番目のおたね*2を生むことは許されないのだった。
座頭市 血笑旅』にはめくらばかりの旅人が3度登場する。冒頭、中盤、ラストにおいてであった。市は彼らと遭遇するたびにもう会うことはないだろうと暗に思いつつも、結局3度も偶然の邂逅を遂げるのである。陽気でありながら異様でもあるめくらたちが市の前に立ち現れることによって、めくら・やくざ・流れ者という「業」からはもはや逃れられないという悲しみがひしひしと伝わってくるのだった。「座頭市」にあっては滑稽さやユーモアには必ずといっていいほど「業」の悲しみが張り付いているのである。
三隅研次の描く夜は本当に暗い闇であり、殺陣のシーンはまったく音が聞こえなくなるほど静寂に包まれている。それは「座頭市」を描く倫理であり、シリーズが作られ続けアイディア重視になりがちな流れにおいても、常に座頭市という存在の原点を見失わないための批評性でもあるのだ。

*1:同じく三隅研次監督による作品だということを考えても、この監督は座頭市のあるべき姿を認識しているに違いない。

*2:市が心から愛した女。『座頭市物語』『続・座頭市物語』『座頭市 兇状旅』に登場する。その純粋さゆえに破滅の身をたどってゆく。