『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』85’

田舎の港町を舞台に、原田芳雄倍賞美津子を始めいくつかのカップルの群像劇が描かれる。旅回りのストリッパー、誘拐、クビになった教師、悪徳警官、やくざ、原発…様々な「異物」が巧みに絡み合いながら描かれる。泥臭い愛憎劇としても面白く、ラストの銃撃戦まで、大活劇としても楽しめる。内容的にはかなり密度が高い。
しかし、ぼくが気になったのはもっと他の部分だった。それは例えば、灰色のカバーで覆われた車が急発進する場面だったり、原発の中で作業服を着た人間だったりする。何か圧倒的な「不吉さ」を漂わせるそれらの要素は、物語を超える存在感を際立たせていたのだ。そして、それらの要素を考えみると、森崎東が下ネタを露骨に導入するということが理解できるのである。つまり、排除されたものを描くという傾向が、その「不吉さ」に著しく結実しているのだ。
今では当たり前となったが、素人を俳優として登用するというのは『黒木太郎の愛と冒険』でも見られるとおり、森崎映画の特徴である。『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』においても、冒頭から登場する不良中学生は公募で選ばれたらしく、そこにも(映画から)排除された身体の導入というモチーフが見られるだろう。森崎東はそれら特異なものを特権的に描くというのでもない。それらは中心化されず、当たり前の顔をして存在している。だからこそ逆説的に「不吉なもの」として映ることがあるのだろう。
なぜかと問うのは愚かだろう。ぼくたちが生きている世界は「不吉なもの」や下ネタや排除されたものに満ちているのであり、それらの要素は(何らかの都合で)排除されることによって、「不吉」となったり「下」となったりするのだから。森崎東の映画とはそういった啓示を与えてくれる点においても重要な存在なのだ。