牧歌的な時代の偽物

勝新太郎映画祭では上映されなかった『悪名市場』をビデオで見た。芦屋雁之助芦屋小雁が朝吉と清次のコンビの名を騙って騒動を巻き起こすというものだ。勝新演じる村上朝吉は刑務所でおつとめ中の清次関連のいざこざを解消するために四国に向かう。そこで偽コンビに出くわすというわけだ。
勝新と後に出所した清次は最後に自分たちの本性を明かすわけだが、それまでは偽コンビにやりたいようにやらせている。芦屋雁之助芦屋小雁キッチュさも相当なものだ。こんな偽物が通用するのかといった牧歌的な許容量。すると、事件を解決して四国を去る船上にて、藤田まことが演じている若者は清次の偽物の扮装をしており、本物の清次に絡んでくるのだった。嘆く勝新田宮二郎は果たして映画の内と外どちらにいたのだろうか?
芦屋雁之助は『座頭市 逆手斬り』でも、偽座頭市キッチュに演じており、両作品を監督した森一生と共に何らかのこだわりがあるのかもしれない。この点はいろんな人も指摘しているので、むしろ同時代を生きた人による考察を参照してみたい。というのも、やはり勝新という役者の存在に関わってくるはずだからである。
勝新の役は強烈な特徴、個性を持つがゆえに真似するには恰好の材料となり得る。自伝を読めば分かるように、勝新自身も幼いときは周囲にいた花柳界の多くの先達から、優れた芸を真似して盗んできたのだ。そういった特異な身体を持つ役者=勝新太郎の身体の魅力が人々を吸引しないはずがない。おそらく、高倉健任侠映画が人々を高倉健的存在になりきらせたように、勝新の映画が人々を勝新的存在になりきらせたということも考えられる。
しかし、勝新太郎の特異性というか過剰さは、誰にも捉えられないものなのだ。『座頭市映画手帖』で湯浅学らが証言しているように、当時は一般的に「よく分からないけど、とにかくすごい存在」として勝新という存在は受容されていたのだろう。
だからこそ、森一生監督と芦屋雁之助キッチュな偽物が登場する。あれは村上朝吉や座頭市の真似であると共に勝新太郎の真似でもあり、実物との決定的な落差が生み出す避けがたいずれのおかしみなのである。それは牧歌的な時代ゆえになされたことかもしれない。現在に勝新太郎的な存在がいたとして、テクノロジーによる完全なコピー再現がなされることが考えられようか?『ドッペルゲンガー』の役所広司、あるいは『アダプテーション』のニコラス・ケイジのように複数化した勝新太郎が想像できようか?これは勝新を捉える上で自明だけれど重要な要素だと思う。