テクノポリス1980

新宿に行くと街の喧噪は激しかったが、テアトル新宿の場内は1000円均一*1にもかかわらず、それほど混雑していなかった。ケラリーノ・サンドロヴィッチ監督作品『1980』を観たのだ。
あまり書くことはないのだが…蒼井優は可愛かった。鈴木一博の撮影もいつも通り良かった。しかし、あまり面白くなかった。世代が違えば共感できるのだろうか。三姉妹の物語にしても、チェーホフを意識している*2とかよりも、軽薄な印象しか受けなかったのだが…。それがあの時代だというのならそうなのかもしれないけど、ぼくには良さが分からなかった。ナイロン100℃の芝居はテレビでしか観たことがなく、いつかは観たいなと思っていて未だ実現していないのだけれど、定評のあるケラ演出がこの映画に存分に発揮されているのかどうかも検討してみたいので、近い内に観に行ってみよう。お金がある時に…
しかし、最後の犬山犬子が演じた長女の台詞が気になった。その際、時代の「速さ」において行かれることへの危惧をつぶやいたのだった。速い時代としての1980年?それにしても、この映画は意識的だと思えるほど「遅い」映画だった。『1980』のテンポの遅さは誰もが体感できるほど顕著である。あるいは、ハイテク機器として不格好な留守番電話や大きなウォークマンが登場し、今と比べるとずいぶん「遅さ」ばかりが目立つ。蒼井優が演じる三女がヌードになるとかならないかでもめる映研にしても、16mm映画に燃えるとはやっぱり「遅さ」の体現だと思える。アナクロと言ってもいい。
そんな(今の時代から見ての)「遅さ」に対して、犬山犬子が言うさきほどの台詞をどう受けとめてよいものかと考えてしまった。とはいえ、例えば映研が300万円もかけて必死に制作していた映画はふとしたトラブルで失敗作になってしまうのだが、失望の果てに狂乱する部員たちの撮り方はなんと感傷的なことだろう。そして波風がすべて去った後の静かなラストシーン。屋上から見えるテクノポリスの風景は見慣れているただの風景でしかない。どうもこの映画は複雑な気分で描かれているようである。
思い返せば、冒頭は舞台となる学校の男子生徒、テクノカットのイケてない追っかけ小僧の視点から始まるのだった。そして、物語を追うにつれて、ナレーションはその時その時で人物が入れ替わっていって、統一する立場からの視点は存在しない。カットのつなぎ方に関しても同じような印象を受ける。そういった各要素を、ケラリーノ・サンドロヴィッチの1980年に対する思いの現れとして読み込むのは何か違うような気がするし、ぼくはそう言い切るだけの手掛かりを持ち合わせてない。そのうちキーワード巡回でもしてみようかな…

*1:テアトル系の映画館は水曜日が1000円均一だ。

*2:1000円もするプログラムにおけるミルクマン斎藤の評より。