女優である前に女である

ワイドショーで少し話題になった寺島しのぶのエッセイ集『体内時計』を買って読んだ。そこには梨園の中で育まれた華やかな生い立ちが綴られていると思いきや、梨園という男社会から疎外された女としての過剰さがあふれていて驚いた。自らも感情の起伏が激しいと告白する寺島しのぶ。淡々と綴った文体とは裏腹に正直な感情の吐露がなされている。

「わたしは、わたしは」なんて自分のことだけを考えている間は、居場所は見つからない。自分のことだけではなくて他人も見つつ、相手が自分をどう見ているんだろうかとか、どう思っているのかとか、相手の感情を探りつつ、いつも自分の居場所をねらっていた。それは、わたしがコンプレックスのかたまりだったからだ。こんなに屈折していなければ、これほど自己分析をしていなかったし、他人のことも観察していなかった。

小見出しごとに断片を綴ったエッセイはよく見かけるのだが、この『体内時計』は多数の断片の形式をとりながらも、微妙につながりの一貫性を見出せ、結びつきの弱いひとつの物語のように読める。そして、特徴的なのが、女優としての洗練を目指しつつも、常に女としての自己に回帰してくるという点である。寺島しのぶは女優である前に女なのである。