前田愛も高橋世織も女ではない

昨日ジュンク堂に行くと高橋世織の『感覚のモダン』という本が並べられていてつい購入してしまった。大学一年の頃はこの教授の講義「映像文化論」に潜り込んでいたのだ。大学に入って間もない頃は、高校時代の管理的かつ直線的な授業からの開放感もあり、脱管理的かつ脱線的な授業に喜びを感じていた。というのも、ぼくが2年ほど通った映像の学校の講師としても高橋世織は招かれていたのだが、授業中にカップラーメンを食べたりすることはむしろ奨励されていて、半分冗談かもしれないが寝ながら授業をするということを提案したりしていたのだ。専門のひとつに身体文化論があるのだから、そういった身体面へのアプローチとして言ったことだろう。ふと、そういう記憶が蘇ってきた。
高橋世織の講義を思い起こすと、浅田彰よりも中沢新一のシンパだったこと、ソクーロフの『ストーン』を観るのに寝ながら観ることをひとつの身体体験として肯定すること、アラーキーに自分自身の写真を撮ってもらったということ、イベントで開かれた港千尋との対談で寝不足のため何を言っているのか分からなかったこと、前田愛*1さんを振り返ってお互いにその名前から女性だと思いこんだこと…そんな断片ばかりが頭をよぎる。
『感覚のモダン』はまとまった本として初めてではないだろうか?対談や共著等はたくさんあったし、中沢新一の対談集『哲学の東北』では宮沢賢治の話で意気投合していたこともあった。ニューアカ世代のひとりとして一応はその時に大学助手だったのだ。ぼくの大学ではスター性*2のある人材は乏しい。その中では高橋世織の学内人気はなかなかのものなのだ。ここ2、3年の動向は追っていないが、おそらく今も(そんなに速くない)野ウサギの走りを続けているのではないだろうか。
大学入ったばかりの頃は本当にはまってしまって影響を受けたが、そのおかげでニューアカ的なものが流行っているのだと勘違いして、現実の流れからしばらく取り残されてしまったのだった。宮台真司は『援交から革命へ』*3のあとがきで「憑依」について書いている。本当にすごい人物に「憑依」する過程は大切なのだ。「憑依」と「離脱」を繰り返すことで自分自身を形成してゆく。これは、勝新太郎の言う「まねる、まねぶ、まなぶ」という3つの道によって形成する芸風と似ている。
しかし、「憑依」したり「まね」たりする対象を選択することは、その後を左右する重大事である。何だか分からないが畏れ多いすごさ。それに感染する自分自身の感覚を磨いておかなければならないのだ。扉は開いておくべきなのだ。

*1:文学者の前田愛さんを尊敬する一方、ぼくはもとチャイドル前田愛の大ファン。決して前田姉妹のファンではない。前田亜季の魅力はよく分からない。声優にも同姓同名の人がいて、チャイドル前田愛を探す過程でよく間違えたりした。

*2:ぼくの専攻するロシア文学はさらに狭い内輪を形成しており、活躍している人の顔が身近だったりするのでスター性など生じようはずがない。

*3:文庫版は改題され『援交から天皇へ』となっている。読んでないので内容については加味されたのかどうか不明…。