最高の兄弟の狭間で

肉体労働でへとへとになった後の目覚めの心地よいこと。昔、野球部だったときの生活リズムを思い出した。数百球投げた後の肩の痛みは勲章のようなものだった。
起きてから山城新伍著『おこりんぼ さびしんぼ』を読んだ。若山富三郎勝新太郎の兄弟とのつき合いを綴ったエッセイである。山城新伍若山富三郎の兄弟分だったので、比重としては兄=若山への思いが強く表れている。面白いのは、若山と勝の正反対と思える相違点と本当にそっくりな類似点だ。
相違点→大酒飲みの勝新太郎、完全な下戸の若山富三郎。婉曲的な感情表現の勝新太郎。ストレートな感情表現の若山富三郎。役を選びに選んで晩年には自分に合う役柄を見出せなかった勝新太郎。来る役来る役を請け合っていた晩年の若山富三郎
共通点→淋しがりやで人付き合いを好んだ二人。根っからの役者だった二人。芸の「間」を大事にした二人。父である杵屋勝東治を心から敬愛する二人。共に病死した二人。役者だけでなく多くの人から何の掛け値もなしに愛された二人。
テレビの時代には、役者として過剰な存在である兄弟は、スポンサーの意のままにならない余剰としてしか認識されない。「往年のスター」という呼称に「敗残者」の響きを感じる山城新伍たちの世代は、記憶の中にだけその痕跡をとどめながらも、テレビ時代に対応しなければならないという逡巡があるだろう。最近、ぼくは山城新伍をテレビで見ていないが、かつてよく見かけていたときの彼が、何らかの違和感と共にブラウン菅に映っていた理由を少しだけ理解できた思いがした。若山富三郎勝新太郎という存在をなくした後には、テレビであれ、テレビ的な感性から自由でない映画であれ、ある種の断念と共に仕事をするしかなかったのではないか。
それにしても、若山富三郎も愛すべき人であるが、勝新太郎という人は映画の外でもどれほどの物語を生んでいることか。ぼくが先日読んだ『私論・勝新太郎』において、山城新伍の名前も中村玉緒の名前もまったく登場してこなかった。市山隆一は彼自身の勝新太郎を書いたのである。膨大な人数との交友関係を持ちながらも、それぞれに軽薄な関係を結ぶというのではなく、それぞれに濃密な物語が生まれているのだ。勝プロのプロデューサー眞田さんだって、勝新太郎にすべてを捧げた人だったのだ。ぼくはそのような個々の勝新太郎の物語をもっと読みたい。