切れ味の鋭いことで…

冬コミの熱を感じようともオタク系に針が振りきれないのが今のぼくで、やがてこつこつと勝新太郎に取り組むのだった。平岡正明の『座頭市 勝新太郎全体論』の前半は、勝新論というよりも座頭市論であり、映画批評というよりも物語分析であった。日本古典芸能についての知識やそれについての語り口などはさすがだった。後半はどうなることやら分からないが…。しかし、所収されている論考「おととい斬ったつもりのゴダール」におけるAとBそれぞれの人物*1による対話に次のような言葉があった。

A「座頭市についてきみがどう考えようと、あれは大映の商品であり、だれかの脚本による勝新の演じるものだということを考えてみたまえ。」
B「いや、そんなことは考えることはない。勝新も、原作たる子母澤寛の『ふところ手帖』も、だれかの脚本もくそもない。座頭市は、純粋に、絶対的に、神のように座頭市なのだ。」

いや、これを読むと、先日見たばかりのせいか『装甲騎兵ボトムズ』のキリコ・キュービィを想起してしまった。自分が何らかの操作を受けた人間であり、ワイズマンという超越者の意志によって用意されたレールを歩いて来た人間であることを知ったうえで、それでもありのままであり続けようとする。そのような肯定の意志こそ、平岡正明の言葉に力強く表れている。どんな座頭市であれ、たとえそれを勝新が演じないとしても、あるがままの座頭市をあるがままに肯定すること。
その視点はぼくにとって目から鱗だった。田中徳三三隅研次の「業」の物語*2としての座頭市をぼくはとりわけ愛し、イメージに偏った他の座頭市を排他する傾向にあった。けれども、平岡正明の手にかかれば、たとえば『座頭市 関所破り』の魔人=超越的座頭市にも活路が見出される。もはや人間ではないのだ。
とにかく、あるがままの座頭市を肯定することで、偏向のない視点で座頭市から様々な要素を引き出せるのだ。確かに、「業」の物語はそれとしてあって、「座頭市シリーズ」の中のひとつの系列で描かれてはいるが、座頭市像をひとつに統合する身振りをやめれば、さらにいくつもの座頭市、あるいは「座頭市」という物語を発見できるのである。鋭く斬るのは構わないが、むやみやたらと斬り捨ててはならないのだ。

*1:Aは佐々木守でBは平岡正明ということらしい。

*2:平岡正明の言葉では、情念の物語ということになるだろう。