その素晴らしい映画とは『ジョゼと虎と魚たち』だった。犬童一心といえば、大島弓子ワールドに挑戦した監督作『金髪の草原』はそれほど琴線に触れなかったものの、塩田明彦監督と共に脚本を担当した『黄泉がえり』は素晴らしくて、ぼくは2度も劇場に足を運んでしまった。どうやら犬童監督はファンタジックな内容をリアリスティックに描く作風らしい。まあ、それでもそれほど期待していたわけではなく、渋谷のどこかのミニシアターで公開されていた時はなんとなく見逃してしまい、ぼくの家からおよそ15分以内で行くことができるシネコンにやってくるまでお預けとなっていたのだ。だから、決して池脇千鶴のおっぱいを観に行ったのではない、と断っておこう。
佐内正史のスチール、くるりの音楽、Dのイラストなどのコラボレーションという点などもとかく話題になっていたりするが、そういったものが全面に出ているわけでもなく、意外と抑制された演出でじっくり人間を描いている印象を受ける。妻夫木聡池脇千鶴の芝居はとても素晴らしくて、さすが当て書きした脚本だけあるにせよ、この2人に負うところはかなり大きい。
脚に障害をもったジョゼ=池脇千鶴は、みすぼらしい一軒家に老婆と2人で暮らしていて、障害を持った孫を世間に隠したがる偏屈な老婆は、人気の少ない時間帯に乳母車に孫を乗せて散歩させ、その奇妙さが近所で話題となっている。雀荘で働く大学生恒夫=妻夫木聡はふとその2人と遭遇し、朝御飯に招かれるはめとなる。そういった出会いから映画は始まって、変わり者のジョゼとの時間と、数人の女とセックスすることに喜びを覚える普通の大学生の時間の狭間で、ふと女としてのジョゼに惹かれ始める恒夫。
密室での2人を寄りでじっくり捉えるカットと、乳母車にジョゼを乗せて疾走する恒夫をロングで捉えたカットのコントラスト。ジョセが住む貧しい町並みは、坂本順治の『ぼくんち』とか、もっと遡行すれば田中登の名作『(秘)【まるひ】色情めす市場』とかで描かれた変わり者たちの風景であり、脇役たちがなかなか良い味を出している。そんな風景と大学の食堂の賑やかな健全さが同様にコントラストを生む。心地よいリズムの展開に揺られながら、ジョゼと恒夫はちょっとした溝によって引き裂かれ、老婆の死をきっかけに再会する。ぶっきらぼうで変わり者のジョゼが恒夫に気持ちを打ち明ける場面はどうにもセンチメンタルで、ここまでのジョゼっぽさを考えるとありえないとぼくは思うのだが、それでも池脇千鶴の演技によって救われていると思う。実際、ぼく自身も感動してしまうのだった。
映画は、ほぼ終わりの方でロードムービー調に転調する。生まれて初めての旅をするジョゼにとっては、外の世界は新鮮であり、自分自身を深海魚に喩え、些細なトンネルの中の光にさえ感動を露わにするが、恒夫にとってはそれは見慣れた世界であり、ジョゼのナイーヴさが鬱陶しくなってきたのは目に見えている。恒夫はもともと女子大生とのセックスに喜びを覚える普通の大学生なのである。一度はジョゼと永遠に一緒にいることを誓ったとはいえ、別れはその旅の中に兆していたのだった。だから、このロードムービー調の場面を観るのはちょっと痛々しい。恋愛の二重性が刻印されているから。深い絶望と甘い妄想。
性愛を見つめ、痛々しさを見つめ、映画は幕を閉じる。正面からポジティブとは言えないが、ラストの場面で淡々と自炊をしているジョゼの表情は、その前の場面で泣き崩れた恒夫とは逆に、ただそこに存在する、生活するという意志に貫かれていて、ぼくは最高の終わり方だと思った。
似たような映画では、廣木隆一監督による『ヴァイブレータ』があったけれど、日本映画の若い役者たちのリアリスティックな芝居が最近すごく良くて、これはどうしたものかと思ってしまう。だいたいどれも恋愛映画*1だし、リアルな芝居ということを併せても、実体験の産物なのだろうかと考えてしまう。宮台真司が言うような、入れ替え可能な恋愛を実感しているがゆえに、こうした入れ替え不可能な恋愛を演じられるのではないか…という事態が起こっているのではないか。まあ、それは役者に限ったことではないが…。経験不足、理解不足から来る勘違いロマンチシズム*2がなくなるのは良いことだ。あるいは、逆ベクトル上に位置する河瀬直美系の徹底したリアリズムが、どうにも重すぎて引き気味になってしまうぼくのような人間には、『ヴァイブレータ』や『ジョゼと虎と魚たち』のような映画が最も好ましいのである。

*1:パンフレットでは、妻夫木聡が、これ(『ジョゼと虎と魚たち』)は「ラヴストーリー」ではなくて「恋愛映画」だと強調していた。

*2:例外的に利重剛の『クロエ』は良い。ボリス・ヴィアンの原作もそうだが、ナイーヴさの反転とでも言える独特の味わいがある。