その辺の出来事

引っ越してからの1ヶ月は新しい街が、たとえ殺風景な郊外であっても楽しくて仕方なく、毎日のように散歩するのだが、1年半以上過ぎた今は見慣れた風景にうんざりする。たまに大学に行くと周辺の景色の変化が楽しいのだが、ここ成増ではほとんど変化が起こり得ない。
吉野屋の牛丼も来月過ぎまでということで、牛丼の食べ収めでもしようかと立ち寄ってみた。新メニューは、カレー丼麻婆丼豚キムチ丼。値段は400円と450円。なんとなく雰囲気がなか卯に似てきたな。やっぱりぼくは松屋派…と思いながらも、牛丼はやめて新メニューのカレー丼を食べてみた。特別な感想はない。普通。ちょっと甘口かなと思うぐらい。
福田和也の時評を読んだからには『蹴りたい背中』を読まなければとようやく思い立ったので、成増の本屋なら在庫もあるだろうと楽観していたら、やっぱりなかった。『蛇にピアス』はあった。悔しかったので、この前の立ち読みで途中やめした『蛇にピアス』を読破してやった。
福田和也は正しい。この前は気づかなかったけど、あのフラットさは戦略ではなくて、あの程度の実力ということなのだろう。アマがいなくなった後の単調で長い段落は本当に締まりがなくて、アマの凄惨な死体が描写されるところでようやく刺激を導入するけど、単なるスキャンダルに過ぎなかった。ぼくが冒頭だけ立ち読みしていた時、それなりに読ませるなぁ…と思わされたが、全体を通して読むと、どうやらあの長さでも息切れしている感じで、もっと短い方が良かったのではないかと感じた。
さらに、宮台真司的に言えば、絶望が足りないというのも問題だ。それが表層的なレベルだけでなくて、意味的なレベルでも、この小説をフラットにしていると思う。アマが死んでナイーヴな心情を自覚したり、警察のアマが男色していたことを臭わせるような発言に激昂したりする女の心情を考慮すると、スプリットタンに抵抗感を見せないということも単なるナイーヴさの発露に思える。あるいは「動物」か…
しかし、ここではないどこかへという焦燥感のようなものが垣間見られる部分もあるので、まだまだ作者の意識的な統覚が働いていないのだろう。今後に注目しよう。
本屋でついつい『もえたん』を買ってしまった。萌えたわけじゃなくて興味本位で…