教養について一言

『経済学という教養』を読んでいる今、映画という分野で教養を考えてみたい。もちろん、稲葉振一郎山形浩生の主張する教養とは、知識など量的なものではなくて、もっと根本的な、例えばOSのようなものだ。『経済学という教養』の帯に引用されている本文にもこうある。

 ……しかし、どうすれば(経済学に限らず)そういう「教養」が身につくのだろうか?それはただ単に勉強して知識を詰め込めばいいってことではないだろう。しつこいようだが、人間の能力には限りがある。すべてを知ることが「教養」ではない。そうではなく、それ以前の「生活態度」のレベルで重要なことがある。……

映画に関していえば、ぼく自身「アメリカ映画」という意味を長らく理解していなかった。おそらく、東京に来て1〜2年ほどまでは。それまで「アメリカ映画」といえばド派手なハリウッド映画とかアメリカ人が出ている映画とか一気に遡行してチャップリンの映画とか…そんなものを漠然とイメージしていたにすぎない。
映画館もろくに存在しない片田舎で最寄りのレンタルビデオショップを主な情報源にして、あとは『ビデオでーた』やら『ROADSHOW』やら『SCREEN』を断片的に読むぐらいである。それに友人と共通に盛り上がることもなかった。最も近い友人にアクション映画狂がいて、彼と毎日観たビデオについて熱く語らってはいたが、スタローンやシュワルツネッガーやジャッキー・チェンを除いてはほとんど共通点がなかった。
中学生ぐらいのぼくは生活をアメリカ映画の世界に見立てて、イーストウッドのように眉間にしわを寄せ、散髪に行くときは『山猫は眠らない』のトム・ベレンジャーの写真を持って行って同じ髪型にしてくださいと言い、メル・ギブソンが着るような地味なシャツ&パンツを身につけていたが、そういったものを誰とも共有できなかった。そこには規範が存在しなかった。
だから、映画批評などを読むようになって、例えば青山真治黒沢清が、あれはアルドリッチだ、これはペキンパーだというようなことを書いていても、ほとんど意味が分からなかった。だんだん分かってきたのは『ロスト・イン・アメリカ』を読んだ辺りからだった。ジャンクにビデオ映画を消費し続けて来るだけでは見えない、ある種の(不)連続性を彼らは見ていた。そのあとで初めて『ハリウッド映画史講義』を読んだ気がする。彼らが当たり前として観てきたアメリカ映画を、それをそのまま観るだけでも、ぼくにとって「教養」は必要だったのである。
量的な知識も必要だろう。しかし、教養なき知識は断片的で無機的なものだ。例えば、ちょっと映画の技術を修得して、気に入った映画の場面を再現しようとしてみる。その時、知識だけで再現することがいかに不毛か…くだらない自主映画を想像するだけで見当がつくだろう。だが、まったく違うように見えて実は好きな映画を再現しているゴダールの映画などが、一方で存在する。それを可能にするのは教養だ。
アメリカ映画の教養がある者からアルドリッチやペキンパーやイーストウッドの名が語られる時。アメリカ映画…それは2つのものの関係をカメラにおさめるということ*1…とはどのようなものか、そしてそこで語られている固有名がアメリカ映画をどのように反映しているのか見極めなければならない。
東京に来たばかりの時、田舎の固定的な人間関係とは比べものにならないぐらい多くの人と知り合った。で、初対面の時、ぼくは映画が好きだと言うと、たびたび相手も映画が好きだと返答することがあった。けれども、人それぞれ好きのレベルが分からないゆえに、どういったレベルで話せばよいのか分からなくて、延々と聴き手になってしまうか、延々と一方的に喋ってしまうかしてしまうことが割とあった。そんなのは映画好きが集まる場では起こらないだろうと思われるかもしれないが、実際はそういった場面でも齟齬は大きい。
立教大学の映画における系譜を考えると、根底のレベルでアメリカ映画の教養が行き届いていて羨ましい限りである。たぶん、アメリカ映画を主とする映画の教養が失墜したとしたら、映画批評の位置の低下も関係していると思うし、商業主義ということもあるだろうし、その2つが絡みあっているのも事実だろう。
かつて瀬々敬久トークイベントで、最近はみんな他人の映画をけなさなくなったと言っていたのを思い出す。それも教養の不在と関わっているはずだ。批評的な視座で映画の話をすると、そんな見方して面白いのかとつっ込まれることもあって、甚だ心外だけど*2、映画全体が熱くなるには教養こそ必要なのだとぼくは思うのだった。
一言と書いておきながら、しっかり書き散らかしてしまったが、『作家の日記』のドストエフスキー氏の一言は、ぼくの百倍ぐらい長い!(はっきり測定してないので百倍は言い過ぎかも…)

*1:そんなふうなことを誰かが書いていたような気がするけど、誰だったか、どこに書いていたか思い出せない。教えてほしい…。

*2:ぼくの批評性の拙さを指摘してくれるのならば大いにありがたいが…。そういったつっ込みによる梯子外しは、話す気そのものを失せさせる。