眠りにつく前に…

新文芸座での「梶芽衣子特集」を振り返って。早く寝たいのでとりあえず雑感的にまとめておく。
野良猫ロック ワイルド・ジャンボ』は1970年の作品。監督・共同脚本と藤田敏八。いきなりすごい映画から始まったわけだ。梶芽衣子藤竜也地井武男范文雀夏夕介、前田霜一郎…みんな良い。特に梶芽衣子藤竜也。それに藤田敏八の絶妙な脱中心的な演出が相俟って、緩やかに、軽妙に、青年たちの生活が描かれる。
冒頭のミニ・ジープの暴走シーンなんか、『ファスター・プッシーキャット キル!キル!』みたいで圧倒されると思いきや、ちょっとした段差にジープがはまって、若者たちはかっこ悪く投げ出されてしまう。この辺りがまったく藤田敏八だ。特別出演の和田アキ子が歌っている場面もかっこ良くて、にしきのあきら出演場面にはちょっとした仕掛けが施されていて、またそこが良い。
荒れ地の遠景に范文雀が白馬に乗って現れる場面なんか、ぞくぞくすると同時に吹き出してしまいそうになる。そう、藤田映画はいつもそんな感じだ。しかし、やはり70年代。みんな撃ち殺されてしまう結末。警察の銃弾。血に染まる海。砂丘のような場所に埋まる女。『八月の濡れた砂』や『無宿』などのイメージが重なってくる。きっちり観れば、まだまだいろいろ出てきそうな豊かな映画である。
…もっと適当に書くつもりが長くなりかけている。もっと適当に…。次は『女囚701号・さそり』。1972年。監督は伊藤俊也。こっちはどっぷり東映映画。ただし、女、女、女!男臭い東映やくざ映画を女に置き換えた女臭さ。タイトルバックの「怨み節」は梶芽衣子が情感たっぷりに歌っている。中途半端に意識された「日の丸」はどう読むべきか?冒頭と結末に「君が代」「日の丸」がニヒリスティックに登場するのである。シジフォス神話的な不条理の穴掘り・穴埋め、女の血…そういったイメージと日の丸の交差をめぐって何か考えられるかも知れない。
修羅雪姫』『修羅雪姫 怨み恋歌』は共に1973、1974年。藤田敏八監督。紛れもなく梶芽衣子の映画だった。『野良猫ロック』の姿を見ると、スタイルの良さや気だるい台詞の喋り方から無軌道な若者ぶりがぴったりなんだけど、『さそり』や『修羅雪姫』を観ると、この顔は情念の顔なんだな…と説得させられてしまう。それぐらいに眼に籠もる力が凄まじくて、きりっとした小顔と小さな唇、はっきりした鼻、長くまっすぐな髪がすべて刃物のように迫ってくる。小太刀が似合う。『子連れ狼 親の心子の心』の東三千は同じ系統の顔立ちでも、もっと揺らぎがあるというか、梶芽衣子ほどには迫ってくるものがなかった。それぐらいの方がむしろ感情移入できる。あえて言えば、梶芽衣子は孤独な顔立ちなのだ。それは、若山富三郎の「虚無」からそんなに遠くはない。
データベースを見ると、『野良猫ロック』シリーズは当時、ほぼ1〜2月ペースで公開されていて、そんな熱い状況を同時代に体験できなかった身の上が怨めしいばかりだけど、ますます70年代映画の豊穣さをぼくは実感する。映画の斜陽化と言われつつも、70年代の公開作品を調べてみると、青年期に注目した映画の多さに目を引かれる。タイトルだけで気になるものでは『牝猫ゲバルト』『みだらな受胎』『バツグン女子高生 そっとしといて16才』『16才の経験』『牝蜂の情欲』『ずべ公番長 東京流れ者』『新・高校生ブルース』『美女・痴女・魔女』『色ぜめ』『現代女子学生の告白』などなど。おそらく、東映お色気路線とかもたくさん入っているのだろう。ちょっとずつ調べていきたいが…全部観るだけでも大変そう…。
http://www.jmdb.ne.jp/1970/a1970.htm