嵐の後

イノセンス』の衝撃が走った後、ゆっくり余韻に浸ることもできずにバイトに行ってきて、その際バイト仲間の失踪疑惑が浮かび上がってきていろいろ大変な1日だったが、昨夜は4日分の深い深い睡眠に落ちることができた。夢のない睡眠だった。そんな「嵐」の後に観るちょうど良い映画はなんだろうと思案していて、やはり『ゼブラーマン』だと思ったりしながら、借りていたビデオ、石井聰互監督の『高校大パニック』を観てみた。
冒頭の自殺、その後の展開から、濃厚なドラマが描かれるのかと思いきや、やっぱり石井聰互だった。そんな予感は最初の5分だけで、後はひたすらパニック状態、銃を持った少年と警察・先生・生徒の学校ゲリラ戦が展開される。受験競争時代の学校解体映画*1…と言えるかどうかは微妙だが。
石井聰互は小林よしのり原作の『逆噴射家族』なんかもやっているので、既成概念を解体するという作風はあったのかもしれない。そうすると、昨今の石井聰互はどうなのか…とまた問題が広まってしまうが。
話を再び転じて、押井守の作家的一貫性にも、それと近いものがある。原作の構造の徹底、あるいは露呈だ。だからこそ、原作者からの反発を招くこともあるだろう。押井守はそうすることで原作にとって最も大切なものを終わらせてしまう。もちろん、それは無数にある可能性のひとつの「終わり」に過ぎない。だが、ぼくにとっては『攻殻機動隊』もとうとう終わりを迎えた。おそらく、かつて企画されていたという押井守による『ルパン三世』の映画が作られていたら、『ルパン三世』も終焉を迎えていただろう。
かつてはぼく自身、押井守の「硬派」路線を好きになれなかった。お遊び満載の「軟派」路線のみが好きだった。だから、実写などやって欲しくないと思っていたし、リアル志向な『パトレイバー2』には観る前から拒否反応が出たりしていた。が、転機はやはり後に『うる星やつらビューティフル・ドリーマー』を観てからだろうか…。ともかく、今ではその作家的な部分に深く共感するようになった。続きは暇なときにでも考えよう。

*1:先日ぼくが日記にも書いた宮台真司江川達也のシンポジウムで、高岡健は70年代の「青年」映画として『八月の濡れた砂』と『高校大パニック』を挙げていたのを念頭に…。