ようやく旅の始まり

ようやく観た『ロード・オブ・ザ・リング』(まだ1作目)はなかなか良かった。壮大なスケールを強調しすぎるカメラワークや戦闘シーンの煩雑すぎるカット構成に辟易はしたけど、剣と魔法モノの雰囲気が良くできている。もともとゲーム(特にRPG)で育ってきた世代であれば、こういった世界観にぐっと来ないはずがないのだ。かつて広告に頼らない雑誌『ゲーム批評』で、アメリカ型の「有形技術」と日本型(特に任天堂)の「無形技術」を対比した批評があって、その論者は、例えば「マリオシリーズ」や「ゼルダシリーズ」に見られる「無形技術」の重要性を説いていた。
「無形技術」とは、形にならない技術のことで、操作性だとかプレイヤー視点だとかへの配慮ということだろう。つまり、プレイヤーがいかにゲーム世界に没入できるように作られているか、ということだ。逆に「有形技術」とは形ある技術であり、圧倒的なビジュアルの完成度とかCGの流麗な動きとか、プレイヤーをゲーム世界から疎外し、「鑑賞」といった形態に近づけるようなあり方だろう。『マトリックス』のゲームがメディアミックス的に発売されていることからも分かるように、ハリウッド映画との結びつきでも「有形技術」を捉えることができる。もうひとつ付け加えれば、かつてのハリウッド映画が得意とした「物語の透明性」は「無形技術」に関するものだろう。
ロード・オブ・ザ・リング』の成功は、ホビット族のフロドという弱い存在を中心にした視点と、異世界を色鮮やかに、そして細部まで徹底して描き出したことに大きく依拠していると思う。そう考えると、ぼくがちょっと不満を持ってしまったカメラワークもその効果を担っているように思える。何度も繰り返される俯瞰視点からの圧倒的なパンなどで思い出すのは、『ゼルダの伝説 風のタクト』みたいなゲームのカメラワークだったりする*1。『ゼルダの伝説 風のタクト』の場合、「有形技術」的な面も圧倒的だったが、あのゲームが面白いのは、世界との一体感を約束してくれる「無形技術」の成功なのだ。それは「ゼルダシリーズ」を一貫している。
ロード・オブ・ザ・リング』の冒頭の因縁の歴史の説明、そしてホビット庄での「お遊び」場面と連なっていくのを観て、RPGの導入の構造とそっくりだということが、ぼくたちの無意識に了解される。いや、本当は『指輪物語』の構造がRPGへと転用されていくという流れが正当なのかもしれない。が、ぼくたちの意識の中では、RPGで醸成された剣と魔法モノの感性が映画『ロード・オブ・ザ・リング』を待望したという方が具合が良い。
「無形技術」で作られた世界に捕捉された者は、否が応でもその世界に拘泥しようとする。離脱の拒否は成熟の拒否でもある。ぼくは『ゲーム批評』にそれに関する考察の投稿を送ったことがあるけど、ひとりよがりの拙い内容だったためか採用されなかった。好きなアニメの最終回を終えたときの喪失感、好きなゲームで最後のボスを倒しに行くのがもったいないというためらい…『ロード・オブ・ザ・リング』の三部作構成というのは、そういったぼくたちの成熟拒否の性質と手を繋いで、『マトリックス』と『ハリー・ポッター』を凌駕した。『マトリックス』は第二作、第三作で「有形技術」に溺れたばかりに撃沈。『ハリー・ポッター』はそれぞれが完結し、その世界観から観客を切り離すゆえに…だろうか*2
ロード・オブ・ザ・リング』。今週中に残り2本も観ることになるだろう。

*1:少し暴論を言わせてもらえば、吉田喜重の『鏡の女たち』の構図を観て、ぼくが真っ先に連想したのはゲーム『バイオハザード』シリーズの構図だった。映画『バイオハザード』はなぜあの緊張を孕んだ構図を、すなわち「無形技術」を採用しなかったのだろうか。

*2:ぼくは第一作しか観ていないので。