作家の根

昨日これについて書こうと思っていたら、いろいろ考えてしまって書けなかった。昨夜、ぼくが撮影をお手伝いしたある劇団の作・演出の人と会って数時間お話しした。
今までは2人だけで長い時間話すことがなくて曖昧な関係だったけど、ゆっくり腰を落ち着けて話してみると、お互いにコミュニケーションを苦手としていて、その行き詰まり方が似ているということに共感したりして、ずいぶんと楽しい時間を過ごせた。
ぼくはその人の芝居を今までに3作観ていて、感じたことや引っかかったことを素直に伝えることができた。相手との距離感が測れないままに不躾なことを言ってしまうのもどうか…とか、あるいはどういったことがその人にとっての不躾なことにあたるのか…とかいろいろ考えていると、結局当たり障りのないことを言うにとどめてしまうものである。それでも、ぼくとしては思っていることをなるべく自分の意図通りに(といっても究極的には不可能だが…)伝えたいと思うわけである。
まあ、そんなまどろっこしい自意識にまみれた話は措くとして、その人から興味深い話を聞いた。なんでも蜷川幸雄の芝居がすごいということで、ぼくは映画『青の炎』を観てがっかりしていたけれど、(実はそれにもからくりがあって、)その人は今まで蜷川作・演出の『ハムレット』の変遷も観ているらしく、その演出上のある興味深い話をしてくれたのだった。
蜷川幸雄は一度使った方法を禁じ手として、次の演出の時はそれを使わず斬新なことをやるのだそうだ。しかし、その5公演の『ハムレット』でひとつだけ共通する演出があって、どの場面かというと、ハムレットが父の毒殺疑惑を暴くために、旅芸人に芝居をやらせるところがあって、王が「そこまで」と芝居をやめさせる瞬間である。蜷川演出では、王の叫びの後に全体の動きがスローモーションになるという。そして、それは5回すべてに共通しているのだという。
一度使った手を使わないと公言していて、そんなあからさまに、ある一場面で一貫した演出をするということ。それはどういった意味だろうか?もちろん、それが重要だからに他ならない。しかし、ある作家の作風と言われるものを考えてみる時、蜷川幸雄の件の特徴と同様に、それ以上還元できない要素が残ることはめずらしくない。いわば「作家の根」である。
ぼくが昨夜会った人の作風にもそういった根がある。自覚的にやっているのかと訊くと、それは半々で、例えば台本を書くときにその部分を用いた方がしっくりくるという感じらしい。
映画作家においても蓮實重彦を持ち出すまでもなく、ジョン・フォードヒッチコックイーストウッドなど優れた作家にはあるモチーフの一貫性があるというテーゼがある。そう言われると、なるほどなぁ…と納得してしまうのだが、そこで思考停止してしまうのも居心地が良くない。だからといって、何か分かったわけでもないけど…。
ところで、蜷川幸雄はコミュニケーションの不可能性に自覚的で、昨日聞いた話によると、もう集団劇はできないと考えているそうだ。だからこそ、若いアイドルなんかを使って、集団が共有できる基盤が脆弱なまま、新しい試みをやっているというのがここ最近の蜷川幸雄なのだろう。『青の炎』もそういった視点で見直してみる価値はあるかな、と考えさせられた。ともかく、他にもいろいろな話をして(例えば、コミュニケーションの殻を破るために実践したことが、ぼくとその人で同じだった!)楽しかった。ロッテリアの不味いドリンクで盛り上がったのだから、今度は酒でも交えながらと約束し、次の公演の撮影ではぼくも新しいことを何か試みようと提言してお開き。蜷川幸雄は高い金をはたいてでも観に行かねば…そう強く決心した。今夜もバイトだ。