SF×2+フォークロア×2=?

このところの新文芸座オールナイトは、『キル・ビル』関連などテンションの高い映画が多かったせいか、ロシア映画の4本立ての独特の緩いテンポは、興奮とは無縁の、まったりとした心地良い一夜を堪能させてくれた。
不思議惑星キン・ザ・ザ』は改めて観て、尺が2時間超えるということを再認識した。いつまでも続くようなまったり感は苦痛とは無縁で、逆にいつまでも続いて欲しい、持続の心地よさそのものなのだ。さすがにグルジア出身のゲオルギー・ダネリアだけあって、当時*1の監督の心情などが反映されていたのか、注意して観ると資本主義にも旧ソ連社会主義にもアイロニックな視線が注がれている。しかし、この映画全体が温かいユーモアに支えられているように、ひとりひとりの人間にも皮肉だけでなく哀愁のようなものが描かれている。オタール・イオセリアーニグルジア出身の映画監督だが、やはりこういった人間への視線のあり方は通底しているように思える。細部の面白さということも似ていて、苛酷で悲惨な状況をくぐり抜けた人たちは、平坦な日常を疑いなく生きられる人たちよりも、取るに足りないものに面白みを見出せる能力に長けているのかもしれない。
不思議惑星キン・ザ・ザ』を通底する「地続き感*2」は、政治的な文脈やSFの意匠という枠組みを越えて、ロシア的な感受性と共にあるのだろう。果てしない砂漠はロシア的な想像力のメタファーであり、そこにあるのは諦念だけでなく存在の基盤なのである。惑星キン・ザ・ザに飛ばされた2人の男の「だるさ」はそんなロシア的な性質を体現したものとなっていて、葛藤とか激しい感情とは無縁であり、もしかしたら現実に秘密警察が跋扈していた時代でも、ロシア人の多くはそんなふうに生きていたのではないかと思わせてくれる。アレクセイ・ゲルマンの『フルスタリョフ、車を』にしても、禿頭の医者は不条理な境遇*3に遭うが、諦念を漂わせているようで、同時に淡々と生き抜くようでもあった。
『宇宙飛行』はよくできたサイレントSF映画。ミニチュアを使っての特撮撮影がレイ・ハリーハウゼン並みに素晴らしい。無重量の空間の演出なども迫力があった。その割りには、物語はしょぼい。1935年の映画だからその辺は多めに見るべきか…。
『スタフ王の野蛮な狩り』。これはかなりの収穫だった。おそらくフォークロアを題材にしたような「伝説モノ」とミステリの「館モノ」を足して2で割ったような物語なのだけど、映画全体を覆っている名状しがたい陰鬱さが素晴らしい。本当に気が滅入るような暗さだ。しかも、最後まで出口がなくて、主人公の男と同様にぼく自身も陰鬱さに呑まれてゆくような感じだった。「特撮映画大会」の中では、もっとも影を薄くしている映画ではあるが、KKKを思わせる覆面の騎士が実体のない虚構であったくだりなどはぞくぞくさせてくれる。その後の民衆の蜂起は、まるで『デビルマン』の「人間狩り」みたいな狂気に支配されているのだった。
ラストもフォークロア。しかもゴーゴリの原作。ゴーゴリの短編集では原題通り『ヴィー』となっているが、この映画の邦題は『妖婆・死棺の呪い』である。特撮パワー全開の迫力ある映像が乱舞する。こちらは『スタフ王の野蛮な狩り』とは違って、主人公の神学生と魔女との戦いに至るまでの前半部分はわりと弛緩した演出で、牧歌的な旅の風景が挿入されていたりする。ラスト10〜20分ほどは濃密な特撮場面が繰り広げられるのだが、その合間にも日常が挿入されるので、割りと落ち着いて観られる映画である。その雰囲気を象徴するかのように、特撮シーンは笑いなしでは観られない人も割りといたようだ。確かに化け物は迫力があった。魔女の美しさは必見。だらしのない神学生がなぜ魔女に欲情しなかったのか不思議でならなかった。『かみそり半蔵』の勝新太郎ならば魔女であろうとセックスしたに違いない。魔女?おもしれぇ、一発やってみようじゃねぇか…
さすがロシア映画は奥が深い。まだまだ発掘しなければ…と思わされた一夜であった。

*1:公開はペレストロイカ以後らしい。

*2:スイッチひとつで地球から遠く離れた惑星に瞬間移動する唐突さ。なんのドラマチックな演出もない。『キン・ザ・ザ』における距離は限りなく無に等しく、全体を「地続き感」が覆っているのだ。

*3:挙げ句に、スターリンターミナルケアまで任される。結局、スターリンは死んでしまうが。