虚無に向かう円月殺法

噂通りシリーズ第2作となる『眠狂四郎勝負』は素晴らしい出来だった。『眠狂四郎殺法帖』の「軽妙さ」というのは消えていて、眠狂四郎の「虚無」が徹底されているのだ。それに市川雷蔵という俳優の魅力が存分に加味されていて、虚無は虚無でも『子連れ狼』の若山富三郎のような「冥府魔道」の虚無ではなく、諦念に近い虚無とでも言えるだろう。それは時折臭わされる眠狂四郎の過去にも関係しているし、メタ的な視点から見ると、この映画が60年代に制作されたシリーズであり、市川雷蔵が37歳の若さで1969年に死去した俳優だということも関係しているかもしれない。
70年代の『子連れ狼』などに象徴される虚無は、何かが決定的に終わった後にやってきたものである。それは先日単行本も発売された『ハイスクール1968』*1において、四方田犬彦が書いていた空気ともつながるだろう。しかし、60年代というのはおそらく明確な終わりはやってきておらず、映画の斜陽が徐々にその影を強めてきていた時代だったはずである。例えば、平岡正明著『座頭市 勝新太郎全体論』には、64年の日本映画各社の状況を『日本映画人名事典男優篇』を引用して次のように書いている。

 この時期の日本映画状況をうまく要約した文章をひこう。
「もう押せ押せである。『悪名』『座頭市』ともにシリーズとして定着、そろって高収益を上げて六五年の大映恒例の新春パーティーでは永田社長が、『大映はめくらで目があいたといわれるが、そのとおりだ』と得意のラッパを高らかに響かせるが、それも当然、六四年の日本映画各社の配収が軒なみ十パーセントダウンというなかで、一人大映のみが十パーセントアップという奇跡を演じ、その原動力が勝主演の二つのシリーズだったのである。」
 この押せ押せを受けて一九六五年に『兵隊やくざ』シリーズがつけくわわるのだ。一九六五年の座頭市三本が、どれほどエネルギッシュだったかは既述のとおりである。

勝新太郎の活躍を記したところに、逆説的に当時の映画界の斜陽が見て取れる。同じく大映のスターであった市川雷蔵はどのように考えていたのかは知らないが、そういった状況も映画や役に反映していたのではないかと予想できないこともない。平岡正明は当時の状況を東京オリンピック後の高度成長経済ともかかわらせていて、まだ先の読めない「バクチの隙間」があったと見ている。しかし、先の読めない「バクチの隙間」は、勝新にとっての追い風とはなったが、多くの他の者たちにとっては不安や諦念に結びついたのかもしれない。
まあ当て推量でいろいろと考えるのも不毛なので、先日偶然見つけて購入した市川雷蔵自身による『雷蔵雷蔵を語る』を読んでから、そして『眠狂四郎』シリーズを制覇してから考えることにしよう。ともかく、三隅研次監督による『眠狂四郎勝負』は虚無感に貫かれた見事な傑作だったと思う。

そうこうしている間に「夜のファウストまつり」が始まっている!どちらにしても新宿に用事があるので今からのぞきに行くつもりだ。あまりに混雑していたら諦めて、誰かのレポートに期待するしかないけど…

*1:『新潮』誌上での四方田×坪内対談では明確にそれが語られている。