「夜のファウストまつり」はどうだったか?

予定開始時間から1時間半ほど遅れてロフトプラスワンに行った時は、ライトノベルやSFなどの現在と『ファウスト』の話が中心になっているようだった。はてなのhitomisiriingさん、前島賢西島大介佐藤心東浩紀といった面々に、第一部の最後では仲俣暁生も登壇し、昨今のはてなダイアリーでも話題にしていた大塚英志『「おたく」の精神史』絡みの話が展開される。新人類VSオタクというのは一時的に捏造されたもので、新人類にオタクほどの実体はあるのか、といった問題提起も東浩紀からなされたりしていろいろ興味深い。まあ、細かいことは誰かがレポートすると思われるし、ぼくは途中参加で最後も早めに会場を後にしたので…
第二部は鈴木謙介の生ライブから始まり、会場のボルテージも上がるが、太田克史ファウスト』編集長も呼ばれて、ディープな「『ファウスト』第二号」話に突入し始める。乙一滝本竜彦はどうなの?佐藤友哉は?『ファウスト』は次号も出版されるのか?本質的な問題だけに『ファウスト』読者としてはうーんと考え込んでしまうけれど、確かに文芸批評家東浩紀の指摘…いくつかあったと思われるが、『ファウスト』の外からやってきた作家たちが、『ファウスト』にどうコミットしていくか(太田編集長としては、どう書かせるべきか)という問題は大きい。そこには、その作家が持っている能力に関して『ファウスト』がどういった媒介をするかという視点、あるいは作家たちを今後どのように育てるかという視点なども含まれている。確かに太田編集長から見れば、現在『ファウスト』を読んでいない人に読ませる戦略、さらには『ファウスト』の次号を出せるようにする社内戦略の方が大切なことだろう。それをふまえた上で、ぼくたちの期待にどこまで答えていくのか気になるところである。
もっとも、こういった話を聞いていると大塚英志の問題意識の鋭さにやはり還元される部分がある。漫画原作者=批評家、編集者としての大塚英志はそういった問題にテクニカルに取り組んできたのであり、『サブカルチャー文学論』を読んでいても、ちょうどぼくは村上龍についての章を読んでいるところなのだが、『物語の体操』などと同じく、商品として流通させることの戦略の重要性を改めて感じさせる。戦略を意識的に行うサブカルチャーの人間として、その辺を無自覚にだらしなく行っている(ように見える)、例えばこの本でやり玉に挙げられる「幻冬舎文学」などは批判の対象となる。
ファウスト』においては、現在これだけの作家を集めれば売れるというだけの豪華執筆陣が集まっていて、あるいは太田編集長が声をかければ集められる状況になっていて、商品としては他の雑誌よりも成功している。流通することでひとりひとりの読者との間で葛藤が生まれる。けれど、『ファウスト』第一号を読んだ読者、または『ファウスト』をめぐる言説を経た読者たちの期待は、第二号の志向性と、少なくとも今回のイベントで問題になるぐらいには乖離していたわけである。
しかし、イベント中にも誰かが言及していたと思うが、こういった状況は『ファウスト』に特有であり、この『ファウスト』に向ける期待自体がまるで「セカイ系*1の磁場にとらわれているみたいだ。『ファウスト』に対して「私」だけが分かっているみたいな視点を持ってしまうというような。
ぼく自身ふと気づかされたのだが、あんなに分厚い雑誌を最初から最後まで通読してしまうのは、ぼくの短い人生上『ファウスト』だけだし*2、なぜか通読するものだという自覚が無意識の内にあった。ぼくは当初、舞城王太郎佐藤友哉以外にそれほど興味をもっていなかったのに、いつの間にか『ファウスト』の作家たちすべてに興味を持つようになっている。いや、話題についていこうとしている部分もあるので、本当に興味を持っているかどうかは怪しいところだが、少なくともどの作家にもある程度共感できる部分があると思えることは確かだ。
そのように考えていると、ぼく自身は『ファウスト』について考えるのと、その中の例えば西尾維新について考えるのとほとんど区別が曖昧な感覚になっているようで、『ファウスト』的なものを無意識の内に自分の中で育てているらしいのだ。いや、むしろ自分自身の何らかの気分を『ファウスト』的なものが代入しているといった方が近いかもしれない。だから、少なくともぼくは、自分自身の漠然とした期待をあらかじめ『ファウスト』に投影してしまっているのかもしれない。
そんな不毛なことをつらつら思ってしまうのも、『ファウスト』の刊行が4ヶ月の間を要したことに起因していて、文芸誌のように毎月刊行されていれば、そんなことを考える前に目の前の作品群を見つめるだろうと、傍観者ゆえに考えてしまうのだった。
しかし、ぼくにとってはもっと重大なことがあった。
ロフトプラスワンに向かう直前のことだった。ふと紀伊國屋に立ち寄り、2階にあるTEITOでCDを物色していたら、今まで絶版ということで何度ヤフオク楽天市場を探しても見つからなかった「あれ」が見つかったのだ。その名も『歌いまくる勝新太郎』!数々の名曲を聴くために有線放送に加入した後に見つかるとは、なんとも皮肉な結果であるが、それも気にならないぐらい有頂天になる出来事だった。もちろん、『ファウスト』のことも気になっているのだけど…

*1:鈴木謙介によると、生きることが選択肢を選ぶように自覚される世界のあり方において(ギャルゲー的世界)、ある選択が宿命として感じることにリアリティーがあり、それを「私」だけが分かっているメタ視点で描かれるような作品らしい。完全には覚えていないので、ぼくなりに改変してしまっている部分があるかも…。

*2:例外はPCエンジンにはまっていた頃の『電撃PCエンジン』と『PCエンジンFAN』ぐらいかな。