再開

店頭に並んでからすぐに買ったというのにこのところ読みさしだったのは『サブカルチャー文学論』だが、久しぶりに再開。村上龍についての章(「幻冬舎文学論」)を読了する。
簡単に言うと、村上龍は『五分後の世界』でサブカルチャー的な手法を洗練させるのだが、それと同時にかろうじてあった資本主義的なものへの批評性を失ってゆく、という話だ。大塚英志は、江藤淳村上龍の『限りなく透明に近いブルー』認めなかったことを受けて、より詳細に村上龍小説の変遷を考察してみせる。
大塚英志江藤淳の文学観をこう評する。

江藤淳の批評を読んでいると彼が「文学」とは「近代」との軋轢の中で人間そのものが軋み、自壊していく局面にこそ立ち現れると考えていることがわかる。

『なんとなく、クリスタル』から始まりダブル村上や吉本ばななを経由してゆく文学のサブカルチャー化。それは資本主義が徹底された高度消費社会の下での文学だった。80年代にこういった文学が登場してくるということは、すでに70年代には変化の兆しがあったということだろう。
ちょうど昨日買った『'70 寺山修司』には宮台真司のこういった指摘があった。

しかし皮肉にも、光と闇に引き裂かれるモダニズムの時代は、急な移行変化のプロセス途中だからこそありえました。モダニズムなるものは「不可能性の表象」です。モダニズムの時代を回顧する私たちが、これを理想としてもたらそうとしても論理的に不可能です。
(中略)実はアングラも同じです。だから長くは続きません。具体的には一九六〇年代半ばから七十年代半ばまで十年ほど。

これを参照すると、80年代の「文学のサブカルチャー化」というのは、モダニズムの終わり=ポストモダン化、あるいは近代化の終わり=高度消費社会化であり、「不可能性の表象」から「『不可能性の表象』の表象」とでも言える事態へと突入していくのではないか。
寺山修司のモチーフを借りれば、「私たちを不自由にする記憶(共同体的な闇)から私たちは自由になったが、かつて不自由を強制した記憶がなくなってしまうと、私たちは主体を失い再び不自由になってしまう。不自由な私たちは、失われた記憶を憧憬することで私たちはかろうじて自由を掴もうとする」という感じではないかと思う。
しかし、村上龍はそんな記憶喪失を進んで受け入れるのだ。基地文化という出自をアイデンティティとし、『限りなく透明に近いブルー』で自他の境界が崩れてゆくような世界を書くことによって。で、『五分後の世界』に至ると、単一の世界観の中に自ら向かってゆく主人公によって、自他の境界という前提そのものが消失してしまう。
大塚英志のこういった論法を読んでいて、ぼくはふと庵野秀明が次のような趣旨のことを指摘していたのを思い出した。(記憶が曖昧なので細部に違いはあるかも。出典も定かではない。『ラブ&ポップ』映画化の時の村上龍との対談だったような気も…)庵野は大塚とは逆に、『五分後の世界』において村上龍の小説がしっくりきたらしく、それはなぜかというと、それ以前の村上龍は超人的な人間を主人公としていたけれど、『五分後の世界』で初めて普通の人間*1を主人公としたからだということだった。『五分後の世界』には超人的な兵士が登場するが、主人公は「五分前の世界」からやってきた普通の人間であり、「五分後の世界」は彼の視点を通して現れてくるものだった。そういった点を指摘して、庵野村上龍の小説に他者性が出てきたと言っていたような、そうでないような。いずれにせよ、もしそれが正しい記憶だったとすると、大塚の言う「他者性」と庵野の言う「他者性」は別の位相にあることが分かる。前者は世界認識のレベル、すなわち現実と虚構として。後者は作品世界における内在的な視点のレベルとして。これは何を意味するか?
大塚英志は、村上龍の『五分後の世界』以降の小説をサブカルチャーとして評価しつつ、「文学」としてはこき下ろしている。江藤淳の文学観をふまえて論考を進めている者としは当然だろう。しかし、ぼくはたぶん村上龍はそれを分かってて違う道を選んだのではないかという可能性も捨てきれない。『限りなく透明に近いブルー』は「あとがき」をめぐって、村上春樹の「デレク・ハートフィールド云々」に比べて手法の拙さが批判されているのだが、ぼくの好きな『映画小説集』は現実と虚構の二重性に批評性のある優れた短編集だったと思うし、そもそも『限りなくく透明に近いブルー』の第一稿のタイトルは『クリトリスにバターを』だったはずだ。なんとなく『愛と幻想のファシズム』を予見させるではないか。
そんなこんなを考えているところに、つい最近、斎藤環の『蛇にピアス』評を読んだら、「文学のポストモダン化」として肯定的に捉えていて、「じぶん探し系」*2作家金原ひとみの資質をずばり言い当てている文章がぼくに霊感を与えた。金原ひとみ村上龍の影響を受けているとすれば、ピアッシングやセックスのような意匠ではなく、作家自身のコミュニケーション志向な資質に違いない、とぼくは思ったのだ。村上龍も進んでテレビに出るような人間だし、取材対象との自己同一化によって作品世界を創造する能力は、そのコミュニケーション志向をよく表していると思う。テレビで見る村上龍は柔和で話し方の語尾なんかも「〜だよね」という感じである。斎藤環の『蛇にピアス』評でも金原のインタビューに触れていて、あまりの「素」のさらけ出しっぷりに周囲とのシンクロ意識を見て取っていた。
話が錯綜し過ぎている…でも続けよう。
庵野秀明が『エヴァンゲリオン』を作り『ラブ&ポップ』を作り(『式日』は含めるべきかどうか分からないけど)、自他の境界をなくす「人類補完計画」などを持ち出しているのは、おそらく村上龍的なものへのあこがれではなかっただろうか。村上龍の小説では、『エヴァンゲリオン』があのような物語を紡がねばならなかったのとは逆に、すでに「人類補完計画」的なものがなされていたのである。そして、金原ひとみはその申し子である。
だから大塚の議論に戻ったとき、ぼくはある違和感を覚える。村上龍は江藤−大塚の言うように批評性を欠いたのではなく、そのコミュニケーション能力=シンクロ率の高さゆえに、高度消費社会→グローバライゼーションにさえ同調しているのである。そこでは二項対立的なものが無化され、それぞれを隔てる境界が溶け合っている。しかし、村上龍のすごさというか特徴は、どれほど自他の境界を取り払おうが主体が消滅しないということではないだろうか。貪欲に何物をも吸収していこうとするエネルギーの塊のような存在。「文学」という出自なんて関係ないのだ。大塚英志が『五分後の世界』以後の村上龍サブカルチャー化の徹底したものとして「文学」ではないとするのは、村上龍への批判にならない。すでに相手は『13歳のハローワーク』の書き手だ。
『「超能力」から「能力」へ』や『eメールの達人になる』や『13歳のハローワーク』、そしてキューバ音楽の紹介者としての村上龍は、直面する現実を進んで肯定し、より良く生きるためのスキルの磨き方を提示しようとしていて、失われた記憶にリグレットなど持つはずもない。改めてそんな村上龍の軌跡をたどってみたいと思うのだった。
もっとも、大塚英志の批評の鋭さにはぼくも同感で、違和感を覚えたのは村上龍に関する記述に限られる。たぶん、村上龍は特殊で、他の村上龍的な小説群に対して『サブカルチャー文学論』が極上の切れ味を誇っていることは確かだと思う。ペースを上げて残りも読まなければ。

*1:この後の村上龍は「普通」ということにかなりこだわっていたように記憶する。『イン・ザ・ミソ・スープ』か何かにも、普通の生き方とか言うけどそんなもの誰も教えてくれない、普通ってなんなんだみたいなことを書いていたような気がする。もしかしたら他の小説かもしれないが。

*2:斎藤環著『若者のすべて』を参照。