「オトコってカワイイわ」

まったく違う映画だということが分かった後、久しぶりにロマンポルノ『花と蛇』を観た。原作団鬼六、監督小沼勝、脚本田中陽造、主演谷ナオミ。1974年。改めて観ると思っていた以上に傑作だということが分かった。
団鬼六小沼勝谷ナオミとしては、『花と蛇』の後に作ることになる『生贄夫人』の方が良いという印象だったが、60年代の勝新映画などを浴びるように観て、時代の文脈をある程度(まだまだ理解しているとは言い難いが…)ふまえた今は、その連続性になんとなく了解できるような気がした。『花と蛇』には原作側から不満があり、その後の『生贄夫人』では小沼側からの配慮があったという話も聞いたことがあり、そんな影響も考慮しなくてはいけないかもしれないが、それとは違った点において、ぼくなりに感想を書いておく。
赤いフィルターのかかった画面上、小さなベットの上で身体の大きな黒人とけばけばしい中年の女がセックスしている。それを見つめる少年のカット。セックスに興じる2人に対して、手近にあった拳銃を構える少年。それに気づいた黒人が少年の方に近寄ろうとする。銃声。
独身の中年男性である片桐誠のトラウマ的な夢として冒頭に描かれる場面から始まる『花と蛇』は、その場面が随所で反復され、微妙に形を変え、最後にはトラウマを克服する(したかに見える)といった片桐誠の物語として観ることができる。夢の中の少年は片桐誠でけばい中年女は母である片桐美代だった。その少年期の体験が現在の片桐誠をインポにしている。母はSM関係の映像や写真、大人のオモチャなどの商売をしていて、同居する息子は言ってしまえばマザコン的だ。性欲がないわけではない片桐誠は隠し持ったSMエロ写真を用いてオナニーを繰り返して、精液の染み込んだティッシュをバケツ数個分貯め込んでいる。精液を染み込ませた後のティッシュはひらひらとバケツに落とされる。
こういったモチーフを見ていると、どうしても戦後民主主義と日米関係を想起してしまうだろう。黒人に犯された日本人の母、それを内面化してインポになる息子の歪んだ性欲。谷ナオミ演じる遠山静子は汚れのない女として画面上に現れる(風呂で身体を流しているのが最初の登場シーン)わけだが、彼女の夫である遠山千造に金の力でほとんど囚われの身に近い。故郷にいた頃からずっと一緒で仲の良い小間使いのハルと2人で、異常な性癖を振りかざす老人=遠山千造から逃げ回る日々。映画の前半、遠山邸の庭で演じられる3人の駆け引きがいかにも虚構的に描かれていることには注目しなければならない。例えば、剥き出しの尻の上に数匹の青虫を乗せられた時のハル(あべ聖)の表情。遠山千造が大事にする薔薇をハサミで切り落とし、薔薇の棘で遠山の顔を鞭打つ遠山静子(谷ナオミ)の佇まい。
社長遠山千造から妻遠山静子を調教するように命を受けた、片桐誠は自宅で彼女を緊縛し、浣腸し、辱めた姿を記録する。命を受けた後、ダッチワイフで緊縛の練習をしていたり、実際に遠山静子を調教している最中も電車の音がかぶせてあったりしていて、その辺りは、先ほど遠山邸の場面で触れた虚構性に対応しているだろう。SMの虚構的な空間は成立せず、絶えず現実のくだらない事象が侵入してくるのである。片桐誠にとって、その最もたるものは、母であり、あるいは母をめぐるトラウマ的な体験である。さらに、最初の浣腸を受けた遠山静子が、片桐の構えたビニール袋に排泄する時、あからさまにも爆撃や銃撃の音が挿入されていて、片桐の心理に寄り添う形になっていることがうかがえる。とはいえ、遠山静子の醜態を見聞きして片桐がそこでインポから立ち直るというのは唐突な感じがする。その直前まで、母に「その女とやっちまいな!」と言われ、片桐は「だめだよ…きれいすぎるんだよ」と答え、その後に浣腸するというくだりになっているのだが、女が汚物を垂れるところを見たからといって、片桐がインポを回復するのはなぜか明確には分からない。
調教生活の果てに遠山静子に愛を覚えるようになった片桐は、遠山千造に静子を返すことをためらうようになる。苛立ち始める遠山千造。静子を「神」だと言って慕い続ける小間使いハルも、静子に会いたくて仕方ない。片桐の母は、自分の飼い慣らしてきた息子が静子に魅了されていることが許せない。静子は調教を受け入れ、飼い慣らされ、淫乱になりながらも、美しく輝き続けている。マゾヒズムは権力への意志なのか?
しかし、こういったそれぞれの人物の振る舞いを見ていて強く思うのは、誰もがそれぞれ自分の虚構世界に浸ろうとしているということだ。そんな虚構を維持するために、現実の方をねじ曲げようとしたり、現実から目を背けて空想に浸ろうとしたりする。ただひとり遠山静子の演じる谷ナオミだけが、みなにどのように扱われ妄想されようとも、それをマゾヒスティックに受け入れ、なおかつ「余裕」を見せ続ける。「余裕」とは何が起こっても揺らがないような表層における一貫性のことである。その意味で谷ナオミ勝新にも通じるかもしれない。いや、70年代の何らかの形象につながるのだろうか。
虚構性ということに注目すれば、この映画で描かれる「外」の空間はすべて虚構じみている。普通に考えれば、ロケハンして外を撮影すれば現実がある程度滲み出るはずにもかかわらず、例えば、片桐が静子を公園に連れ出る場面だって、作り物のような薄っぺらさの中で、谷ナオミが縄に腕をつながれたまま笑顔で駆けていて、幻想的ですらある。ポルノ映画館を経て、その後に続く、街の喧噪の中でも表層の薄っぺらさは一貫としていて、電話ボックスの中で淫らに喘ぐ谷ナオミを、通りすがりの人が驚いて見ているにもかかわらず、それらの場面で描かれる「外」はおしなべて虚構的なのである。戦後のネオレアリズモやヌーヴェル・ヴァーグが現実を映し出したかに見えるのとはまったく異なるのである。
(ああもう…バイトの時間だ。この続きは明日にでも、)