同時代の共同性

行定勲監督・脚本『きょうのできごと』を観た。
(…なんとか更新が間に合った。)
タイトルには"a day on the planet"と併記される本作は、行定勲のモチーフがより一層露わになっている。冒頭、午前3時。高速道路のサービスエリアのトイレから出てくる妻夫木聡が「蟹の看板」を見てつぶやく一言から一貫して、ドラマに回収されない、ほぼ無意味な日常的な会話と日常的な動作。大学院に合格して京都に引っ越した仲間を祝おうと集う仲間たち。映画の始まりは、その中の3人が目的地に向かう場面である。その後、暗い海岸でじっと座り込む少女が映し出され、続いて海岸に座礁したクジラが映し出される。ここでタイトル。
そのようなくだりから分かるように、同時代の若者のとるに足りない日常は決して閉ざされたものではなく、どこかで広いつながりをもっているのだという感覚が意識されているだろう。ただし、この映画で現れるクジラ的なものを非日常*1と受け取ってはいけない。後に明らかになるように、クジラの座礁は地元住民の滑稽な奮闘とマスコミの野次馬的な報道、それをテレビの前で消費する若者、あるいは映画のロケハンをかねてクジラを観に行くが結局そのクジラを目の当たりにすることはない若者…というように、それは日常の地平として描かれる。
もっとも面白いのは、この映画の中心(もっとも割り当てられる尺が長いというぐらいの意味での中心であるが)となる若者たちの飲み会で、ほぼ一夜にしか相当しない時間の中で、些細なエピソードと会話のための会話が飽きさせることなく展開される。例えば、ある程度飲食を終えた後、ゲームの『三国志』をやっているだけの場面も挿入されたりもする。こたつを囲んでゲームをする2、3人と、ただ漫画を読むひとりと、別の部屋との間を行ったり来たりするだけの者。また、テレビのニュース番組を眺めながらつっこみを入れる者と横でうなづく者。はっきり言ってばらばらであるが、ここに共同性の空気があるということもひしひし伝わってくる。高感度フィルムに刻まれた包み込むような淡い光の効果もあるけれど、それぞれの俳優の佇まいこそが説得力をもたせているのだろう。
しかし、そんなリラックスした雰囲気の中にも齟齬はある。無内容のコミュニケーションをするのはいい。しかし、妻夫木聡田中麗奈カップルとそれを媒介する伊藤歩の演じる友人の三角関係が象徴的なのだが、幼馴染みの妻夫木聡伊藤歩が互いを理解したやり取りをするのを見ながらほんの少し疎外感を覚える田中麗奈のもの悲しさというのがある。これは共通の記憶=体験が少ないために共同性を持てない悲しさだ。その距離をちょっとでも埋めようと、まだ暗い明け方妻夫木の母校に訪れ、いろいろ質問をする田中麗奈。この辺りを見れば、『きょうのできごと』にドラマがないということは言えないのだが、逆に考えると日常にもこういったドラマがあるわけで、いかにドラマを制御する力を働かせているかという点を考えると、原作を含めてこの映画はかなりすごいことをやってのけている。
それはともかく、共同性の話に戻れば、行定勲は記憶=体験の共同性モチーフを常にやっているように思える。ぼくは全部観ているわけじゃないが、『ひまわり』や『GO』などを思い出すだけでそれは分かる。しかし、『きょうのできごと』を観ると、共同性モチーフがさらに推し進められているような印象を受ける。劇中で挿入されるニュース番組のタイトルも「きょうのできごと」なのだが、壁に挟まれた男のニュースやクジラの座礁のニュースはそのまま人々の記憶に刷り込まれ、共同性を作り出すだろう。もっとも、実際に現場で体験した人と媒介的に記憶に留めた人の間に、共同性のレベルの差異を描いている点はけっこう繊細で、大きな社会的事件がひとつの時代を作っていくこと(例えば「9.11」)への批評性を読みとれないことはない。『文藝』の「特集行定勲」やパンフレットを読めば、そのような意識があることもうかがえるのだ。特に『文藝』での行定とクドカンの対談などから感じるのは、自己模倣はしないという意志であり、また別の点で小津や成瀬の名前を出しているのも気になる。そういえば、『きょうのできごと』には『東京物語』のように冒頭と結末の反復があったような…。
きょうのできごと』の面白さを知った今、公開の近づいた『世界の中心で、愛をさけぶ』にもぐっと期待が高まる。

*1:その説話的な機能は、黒沢清アカルイミライ』のクラゲとはまったく異なる。