セゾン美術館だって?

午前中と午後に2つの授業に出席してへとへとになる。つくづく体力が落ちたものだ。いや、精神的な忍耐力の低下かもしれない。もうすぐ大学の露文で合宿があるらしいのだが、ぼくはこの数年間1度も行っていないので、もちろん今回も行かない。アットホームさが売りの我が露文科では、こういった機会に調和を望まないと、あとは孤高の道が待っている。ぼくは大学のクラス友達というしがらみだけは断固拒否してきたので、今更そんなものに参加しようとは思わない。
授業の中でその合宿の話になり、せっかくだから合宿先の軽井沢のセゾン美術館に行くべきという話を教授がし始めた。無反応の学生に対して「きみらは動物か?」と言っていた。最近の学生は何に興味があるのかと疑問に思ったようで、コンドームの売上が半減したことなどを持ち出して、セックスにさえ興味のない若者というレッテルを貼ろうとしていたのだが、自分自身を振り返ると、確かにたまに何にも興味がないのではと思えてくる。しかし、実際は誰でもそうじゃないのかとも思う。興味なんて自分ででっち上げるものじゃないかと思うのだ。
確かに世代的に興味を持つというエネルギーが低下しているのは事実かもしれない。そうだとしたら、たぶん、人との関係のあり方にかかわってくる問題じゃないだろうか。人がやっていることをやりたくなるというのは、多くの人にとって原初的な興味に違いないからだ。だから、その反面、人とかかわるのが面倒だったり不毛だったりすると、人との関係性の中で生じる興味そのものが失せてしまうだろう。
先日、一足先に就職した女性の知人が、新しい職場は気を使ってくれて居心地の良い場所だけどそれぞれの人間に興味を持っていないということにささやかな不満を抱いていた。その女性がその前にいた職場は、人間関係が密である反面、仕事とプライベートな関係が混同されていたようで、親しげにしていると断りにくい仕事を頼まれたりしたようだった。だから新しい職場はいわば贅沢な悩みに入るのだけど、互いに興味を持たない人間関係の希薄なあり方というのは、わずらわしく不毛な人間関係を経験したり見聞したりした人たちが、あらかじめ被害を避けて自己を防衛しているということに思えなくもない。
他人と中途半端にかかわるというのは、ある種のスキルを要求されることであり、無理にそういった曖昧な関係を持続させると精神的にダメージを受けてしまうものなのかもしれない。ぼくはやはりあらかじめ退却するタイプだ。一方で、自分が望む人間関係は密に実らせて行きたいと思う。