映画という奇術

テリー・ギリアムの『バロン』を観る。昔、テレビの洋画劇場で何度か観た記憶があるけれど、こうして改めて観ると、明らかにドン・キホーテだなということが分かる。テリー・ギリアムの作家的な一貫性が、『ロスト・イン・ラマンチャ』までにどのように変遷していったのか。そして妄想の作品化に失敗し、それ自体がドキュメンタリーとして、見事にテリー・ギリアム的な妄想譚を実現してしまう状況。それについて考えてみたい。
幼いサラ・ポーリーや若いユマ・サーマンの姿を目の当たりにすることで、1989年からどれぐらい時が経過したのか実感することもできる。舞台劇というモチーフ、そのフレームがどことなくジョルジュ・メリエスを思わせ、やがて月に行って、ロビン・ウィリアムズの胴から分離した首が宙を舞う辺りを観ると、この映画の手作り感はメリエスなのだと確信できた。
ドン・キホーテの妄想の「リアル」とバロンの生きた物語の「リアル」。その差異を見つめなければならない。