遊びと本気

tido2004-07-31

今日はあまりに寝すぎてしまって全身の凝りが激しい。今もまだその状態が続いている。だからろくに何もしていないのだが、それでも公開初日の『ドリーマーズ』をレイトショーで観に行った。昨夜寝る前には『ラスト・タンゴ・イン・パリ』をおさらいしていたので、ベルトルッチのおよそ30年を跨ぐ差異が何なのかを見つめようと思っていたが、実際のところどうだったんだろう…?ぼくは正直なところあまり理解していないのかもしれない。

そういえば『10ミニッツ・オールダー イデアの森』を観なかったのは不覚だった。ずいぶんベルナルド・ベルトルッチの映画なんて観ていないと気づいた。よく考えたら、本当にちゃんと観たことなんてないんじゃないか。『革命前夜』の自転車のシーンとかは記憶しているけど。そんなこともあって『ラスト・タンゴ・イン・パリ』を観直すと新鮮でけっこう面白かった。『ドリーマーズ』と並べると、パリ、性愛、ジャン=ピエール・レオーなどモチーフとして重なる部分がいくつもある。それに「尻」ばかり出てくるというのも両者の共通点だ。しかし、もっとも注目すべきは両者の「シネマ」の扱い方、あるいは「シネマ」との距離かもしれない。
阿部和重が『映画覚書vol.1』で『ラスト・タンゴ・イン・パリ』を評価しているのは、過去のアメリカ映画(撮影所システム)→マーロン・ブランドヌーヴェル・ヴァーグシネマ・ヴェリテ風の屋外映画)→ジャン=ピエール・レオーを対照しつつ、映画という虚構の限界点を美しさと共に示したことにあった。ベルトルッチは映画(シネマ)という愛すべき存在に距離をおいて、自己言及的にそれを描いたのだと言えるだろう。作家としては早すぎたその見切りから約30年。『ドリーマーズ』は再びパリを舞台に「シネマ」に接近する。
タイトルバックの後、冒頭のマイケル・ピットシネマテークに通う場面の縦の構図は、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』で冒頭と結末の辺りで使われるマーロン・ブランドの歩く場面を思わせないでもない。その後から映画前半まで繰り返される様々な名作映画の引用と、映画の名場面をお互いに演じあってクイズ形式で出題する3人の男女の密室的な(非)日常。美しく入り混じる物語とオマージュの映像。感動的なそれらの場面を観ると、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』を観た者は一方で困惑しなければならないだろう。その屈託のなさはシネマへの後退なのではないか。シネマを30年前に見切った者が再びシネマへと回帰したのでは…と。しかし、映画の後半を観るにつけてそういった困惑は振り払われた。少なくとも個人的には。
ラスト・タンゴ・イン・パリ』も『ドリーマーズ』も、中心となるのは(いくつかの)部屋である。そして、部屋から部屋へと移動する場面が随所に見られるのだが、両者の間には決定的な違いがあるように思えた。前者には、ひとつのカットの中に二つの部屋を同時に捉え、真ん中の仕切りを挟んで二人の人物が対峙するという印象的な場面が何度かある。後者はというと、部屋から部屋へと移動する場面がカメラの一人称的な動きによって映し出される。つまり、前者では二人の人物の決定的とも言える関係性を可視化するが、後者では部屋から部屋への迷宮的なカメラワークが、次に生じる事態の分からなさ=偶発性を喚起するように思えるのだ。実際、悪く言えば図式的にも映る『ラスト・タンゴ・イン・パリ』の人物や場所の描き分けに比べて、『ドリーマーズ』はほぼ密室的なエピソードに終始しており、しかしその一方でその関係性が図式的に見えないのである。
どういうことか。それはおそらく役者の表層がまとう何らかの「余剰」のためだと思う。パンフレットに記載されているように、このキャスティングはかなり念入りに行われているらしい。そして3人の役者はその魅力を生かしている。設定上はかなり図式的な面もあるに違いない。というのも、この三角関係がまず、ゴダールの『はなればなれに』の引用と重ねるまでもなく、様々な映画の三角関係を想起させる。さらに、フランス留学のアメリカ人/イギリス人の親を持つフランス人、一卵性双生児の男女/孤独な青年という対照があり、あるいは父子の対立、政治へのコミットの仕方、内と外などの二元的なモチーフが頻出する。その上、双子の両親が旅行に出てからは3人の密室的な生活が始まるのだが、その時から夢と現実の境目のない「超現実」が彼らを包み込む。純粋さと狡猾さ、覇気と諦念、愛と無関心…それらが判然としないまま、積極的とも消極的ともつかない様子で互いの身体を寄せ合う彼ら。マイケル・ピットが演じているアメリカから留学中のマシューはその純粋さゆえなのか、時にそんな(非)日常に憤る。外では革命の波が迫ってきているが、彼らは閉じた円環を生き、遊びと本気が入り混じった無時間的な戯れを繰り返す。イザベルはマシューの愛に答えつつも、自らの半身とも言えるテオと近親相姦的に愛し合っていて、マシューの純粋さは彼女の愛に満足していない。そうはいっても、イザベル自身、ふとテオに対して涙を流しながら愛の永遠を保証してもらおうとする(テオは半覚醒状態ではぐらかすのだが…)。こういった曖昧な関係性は3人の役者の表層に大きく依存している。この3人の表情や身振りは余裕と脆弱さを同居させ、常にどちらに転んでもおかしくない未決定感を刻んでいる。また、3人共に中性的ですらある。女装の暗示や罰ゲームとしてのオナニーやセックス、あるいは3人の裸体が、それぞれの性をその都度更新しているかのように、男女の間を綱渡りしているのだ。『ラスト・タンゴ・イン・パリ』ではジャン=ピエール・レオーが「もう子供は終わりだ」みたいな台詞を言う場面があったように思うが、『ドリーマーズ』の3人は成熟/未成熟の曖昧な境界を体現しているように思える。
しかし、表層における微妙な揺れは、よくよく思い直してみると、この映画のシネマへの態度なのではないかと思われる。『ラスト・タンゴ・イン・パリ』は、阿部和重によれば虚構の限界点を示す映画だった。そして『ドリーマーズ』。この映画は虚構の限界点を積極的に生きているような映画ではないだろうか。確かに映画の前半は名作に屈託のないオマージュを捧げているかのような引用が目立った。しかし、映画の後半にはまったくそれがなくなる。唯一、マシューとイザベルがデートと称して出かける場面があるのだが、その時に入る映画館でスクリーンに映写される作品(どんな映画だったか分からなかったが…)は捉えられている。もっともこの場面では情事に耽ることが目的であり、映画自体にオマージュを捧げるような描写ではない。映画の後半は終始3人のあまりに静かな関係性が展開するのだが、それは虚構の限界点をすれすれのところで持続させているように思えるのだ。限界点に到達すれば3人の関係(映画)は終わるに違いない。それは自明のことだ。実際、68年という過去を描いたこの映画は、その限界点を最初から内包している。結末において、革命へと身を投じていく双子とその反対の方向へと向かって消えるアメリカ人留学生という構図はそれほど重要ではないのだろう。革命という現実が3人を包んでいた皮膜を、投石によって打ち破ったというのは驚きではなく、むしろ最初に分かっていたことである。少しさかのぼれば、3人が全裸で寄り添って寝ているところに双子の両親が帰ってくるというエピソードがあるが、両親は彼らを起こすことなく、小切手を置いて立ち去ってゆく。そのすぐ後、ひとり起きたイザベルは両親の来訪を知り、ガス心中を決意するのだった。しかし、そこに革命の波が押し寄せ、心中は頓挫する。この一連の場面を観て思うのは、この映画がやはり虚構の限界点直前を引き伸ばすものだったということだ。タイトルにあやかって、それを夢と呼んでもいいだろう。それをシネマと呼んでいいかどうかはためらわれる。しかし、ベルトルッチの選んだ方法はおそらく正しかった。『ラスト・タンゴ・イン・パリ』を30年前に撮った人間の選択としては正しかった。
あからさまに虚構=映画の限界点を示した者がノスタルジーではなく、再びシネマに積極的に向かうということ。しかも、その限界点すれすれを持続させるという技をやってみせたこと。さらには、そういう状況に耐えうる素晴らしい役者の「余剰」を映し出したこと。『ドリーマーズ』とシネマに対峙したベルナルド・ベルトルッチの魅力とはそういったところにあるのではないかとぼくは思った。