19世紀の(非)リアリティ 

tido2004-08-06

連日のバイトもやっと落ち着き、夜には飲み会が予定されていたので、それまでに『スチームボーイ』を観ることにした。評判の悪さを考慮してまったく期待はしていなかったが…
しかしそれでも退屈な映画だった。大友克洋の言う「19世紀のリアリティ」は伝わってこないでもないのだが、この映画の数々の要素はすべて、根本的にリアリティを強化するものだとは思えない。というのは、最近になって斎藤環の映画批評集である『フレーム憑き』を読んだことも影響しているのだが、映像におけるリアリティとはやはり「フレームにこそ宿る」のだろう。これは押井守の映画と『スチームボーイ』を比べるだけでよく分かる。あるいはアニメについての直接的な言及がなくとも、阿部和重の『映画覚書vol.1』の中でさんざん指摘される「媒介」という考え方も関係する。虚構にリアリティを与えるのは、フレームや媒介性なのである。
スチームボーイ』で強化された「19世紀のリアリティ」はほとんどが現実の細部の反映でしかない。声優に俳優をキャスティングしたこともその一部の要素だろうが、宮崎アニメがそうすることによって大衆性を帯びるようには成功していない。むしろ、過度にデフォルメされたアニメ絵との違和が増すばかりだ。同様に、キャラクターにおける過剰な動作も違和を感じさせる。他の大友作品ではそういった要素はむしろプラスに機能しているのに、『スチームボーイ』ではそう感じられないのだ。
しかし、好意的に見ると、『スチームボーイ』という物語の不全感は半端ではあるが、現実=虚構への批評的な距離なのかもしれない。主人公レイは父エディや祖父ロイドや政府と関係するロバートとデイビッドの間で揺れ続けるわけだが、実際にこの映画を観ていると、その誰もが狂人のように描かれ感情移入できない。その果てに、まったく意思疎通できなかったスカーレットと共に生還するが、余程カタルシスからは縁遠い結末だ。9年間に及ぶ制作期間がその物語に作用しているのかどうかは知らないが、『スチームボーイ』は共感を阻む物語として逆説的に成立していると言えるかもしれない。
しかし、ほとんど徹夜に近い状態が2日間続いた後の映画観賞だったので、ぼくの精神状態が3割ぐらいこの映画の受容に作用しているのは間違いない。飲み会から帰った後、横になるだけで瞼が閉じてくるのに抗えない状態だったが、なぜかレンタルしていた『チアーズ!』のDVDを最後まで鑑賞してから眠った。