子供たちは存在していた

tido2004-08-07

『誰も知らない』を観に行く。
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一日経つと余韻が薄れてしまった。そうはいっても『誰も知らない』は傑作である。なんといっても160分に及ぶ映画の持続感。季節ごとに撮影されたそれぞれのパート、それぞれのパートを構成する断片…その大部分においてカメラは被写体に寄り添い続け、他方、ロングで被写体をとらえる場合も声だけは耳元で囁かれるように映像に被せられている。是枝裕和自身による編集は心地よいリズムを維持しており、まったく尺の長さを感じさせない。カメラマンは山崎裕だけあって、是枝作品だけでなく河瀬直美の『沙羅双樹』の非日常的な映像美を思い出させる。今度の塩田明彦監督作『カナリア』も楽しみだ。
それはそうと、確かに柳楽優弥のまなざしは素晴らしい。いや、彼だけでなく子供たちみんな素晴らしい。パンフレットの「演出ノート」にもあったが、それらは紛れもなく演技力の賜物なのだ。その演技力を開花させる是枝監督の演出も今回にあっては最大限の効果を発揮しているだろう。『ディスタンス』の焚火のシーンなどでは賛否は分かれるだろうが…。『誰も知らない』においてもっとも素晴らしいのは、子供たちが「漂流生活」を始めて極限が訪れた後、部屋の外に出るシーンだ。そこでは、コンビニさえもが魅力的な遊び場となり、平凡な公園は遊園地となる。部屋に閉じこもっていたときとは比べものにならないぐらいの表情。徹底した無表情と強いまなざしだけでも心を打たれるが、あの開放感はそれにも増して心を揺さぶってくれる。
クレジットを見ると高円寺や高田馬場などがロケ地に採用されたようだが、東京の風景が子供たちの戯れによって塗り替えられる様に驚いてしまう。この映画を観ていると、韓国映画の傑作『子猫をお願い』をふと思い出してしまったが、それは4人という組み合わせが織り成すリアリティゆえである。表面的にはまったく違う映画の質を携えてはいるが、ぼくはどちらも好きになってしまった。『誰も知らない』は『子猫をお願い』のように映画的な場面があるわけではないが、それぞれの小さく力強い存在に寄り添った映像には必然的な何かがあるのだ、と断言できてしまうほどに目を奪われてしまう。ドキュメンタリー的手法云々は関係ない。各々の存在が持ちうる魅力というか志向というか何か人を捉えてしまうような部分を、この映画が媒介することによって最良の形で引き出すことを実現したということ。それだけなのだ。
もっとも、YOUをはじめとする芸人や俳優たちの佇まいも素晴らしい。役柄を考慮せずとも、彼ら彼女らの表層的な佇まいを見ていると、子供たちに的確な距離で接していることが窺えるからだ。子供たちの母を捨てた父親であろうと、子供たちを結果的には捨てたことになる母親であろうと、コンビニの店員であろうと、アパートの大家であろうと、みんな必要以上に子供たちに介入せず、かといって無関心なわけではない。一定の距離にとどまり続けているのだ。社会的に抹殺され「誰も知らない」存在になってしまったといえども、子供たちは映画の中ではそういった大人たちの皮膜に包まれていたのだ。とはいえ、それは決して保護膜ではい。強く責任をまっとうして生きようとする子供たちは、むしろ大人たちの保護など寄せ付けない。互いが対等に距離を保っているから心地よいのだ。そういう観点からすれば、ゴンチチのBGMはまさにうってつけだった。