ワンピースを着た梶芽衣子
待ちに待った塩田明彦脚本・監督作『カナリア』を観た。
ついつい更新が遅れてしまったけど、とにかく『カナリア』は良かった。素朴な印象としては、撮影が両者ともに山崎裕であるということもあって、是枝裕和の『誰も知らない』を思い起こさずにはいられない。どちらも子供の物語である、ということも共通している。しかし、『カナリア』の場合、子供たちの物語というより、特異な2人の少年少女の物語ではあるが、それと重なる形で、オウム=ニルヴァーナ教団の信者という大人たちの物語、あるいは信者の娘と孫を持つ老人の物語、そして塩田作品を観るにおいてもっとも決定的な点として「フェティッシュな物語」が展開されているのである。ぼくが引き寄せられるのは、やはりこのフェティッシュな側面だ。
『黄泉がえり』の冒頭の方に、暗い部屋でRUIこと柴咲コウと男の手がピアノの上をスーっと沿うカットがある。あるいは『露出狂の女』で、ヒロインの手が図書館の本の背をなめるカット。このような印象的な手のクローズアップは塩田明彦の映画の中でよく見られる。もちろん、『カナリア』のラストにも…。そして、疾走する脚。ひとつのシーンの始まりが疾走する、あるいは速足で歩く脚のアップというのもよく見られる。それにしても『カナリア』の疾走シーンは良かった。その強度は、疾走映画の代名詞的存在である園子温を超えるほどである。特に、援交しようとする少女を止めようとバットをもって走る少年を横からとらえている場面の速さ。疾走しない脚も重要だ。『月光の囁き』や『ギプス』や『害虫』の少女の脚がすぐに思い浮かぶ。ともかく、ぼくにとって、塩田明彦の映画では人物の特定の部分がフェティッシュに切り取られ、それが印象に強く残るということが多い。その中でも最も強いのが視線である。
これは『映画の授業』などで本人が書いている文章からも明らかなことだし、多くの映画は「まなざし」にこだわらないわけがないのだが、その実践がフィルムにどれほど刻印されるかどうかは映画の出来にかかっている。『カナリア』における視線。もちろん、まず主役2人の少年少女のまなざしの強さ。そして主に交わらないがゆえに印象的な様々な視線。視線は合わせることを拒むか物理的に隔たれる。けれども、例えば、少年役の石田法嗣とバイセクシャルの女役のりょうが車内で同じ方向を見つめる時、ここに何より強い視線の交わりが出現するのである。
そういった「フェティッシュな(身体の)物語」は厳密な意識から生まれているのだろうけど、ふとした隙間を創り出すことにかけても柔軟なのが、塩田明彦のみならずこの世代の突出した映画人に見られる特徴だ。少年と少女の芝居が生かされた長回しのワンカットや飛ぶ鳥を折る老婆のワンカット。そのようなカットはそれが映画のために構築されたものというより、そこにひとつの現実が生まれた瞬間を切り取ったという感すら、こっちで勝手に思ってしまうほどだ。
しかし、『カナリア』でもっともぞくぞくしたのは、ラストに近いワンシーン、傷つき、衝動的に豪雨の中に飛び出して自殺しようとする少年を谷村美月演じる少女が必死に静止し、ある決意を表明する場面だ。雨に打たれ一点を見据えた少女は少年から研ぎ澄まされたドライバーを受け取って歩き出す。BGMは劇中何度も反復された「銀色の道」。ワンピースをびしょ濡れにした少女は…梶芽衣子だった! 思えば『カナリア』は70年代映画の特徴を兼ね備えていた。拠り所のない孤独な旅。まるで砂漠の中をひたすら旅するかのような修羅の旅。これでもかというばかりの不幸さの集中豪雨。さらに、とどめをさすかのような雨のシーン。まさに、梶芽衣子が70年代に魅せた『女囚さそり』『修羅雪姫』『ジーンズブルース』『曽根崎心中』などの情念。
それに比べて少年は弱かった。しかし、少年も変わる。むしろ少年は少女の情念を超える。少年はただ生きることに向かう。ということは、ほとんど虚無であることと同じであり、こっちはさながら「冥府魔道」の『子連れ狼』だ。これは『キル・ビル』でタランティーノがやった試みと似ている。しかし、『カナリア』の少年少女とユマ・サーマンの強さを比べてみると、70年代の映画の、梶芽衣子や若山富三郎の強度に近づいたのは明らかに前者のように感じる。いや、近づくだけでなく、匹敵すらしている。一見、物語性の希薄な現代映画の状況に、そんな70年代のテイストという、濃密な、重層的な物語性が炸裂するのが『カナリア』という映画の魅力なのだとぼくは強く思う。