どうでもいいことだけど

http://movie.maeda-y.com/movie/00510.htm
いつも見ているわけではないのだが……というよりほとんど見てはいないが、ぼくの彼女の「お気に入り」に登録されている*1こともあってたまに見てしまうこの映画批評サイトだが、見るたびに不愉快にさせられる。本当は無視するのがいいと思うけど、かつて『イン・ザ・カット』を、特にメグ・ライアンを酷評していたり、今回も『コックリさん』を酷評していて、個人的な理由を超えて納得しかねたので、どうしても書いておきたくなった。
映画批評家を名乗り、それほどのアクセス数をもつ人気(?)サイトでありながら、書いていることといえばどうだろう?
「見せないことで恐怖を与えるというのはホラー映画演出の基本中の基本だが、この作品ではまったく考慮していないようだ。」と分かった口をきいているけど、現在のホラーにあえて幽霊や化け物を見せるという流れがあるというのをまさか知らないわけではないだろう。『呪怨』がまさにそうだった。まあ、過去ログを見ると、この人は『呪怨』をまったく評価していないようだ。けれども、『コックリさん』を見れば、作り手がどのような方向に力を入れようとしているか分かろうものだし、そういった「あえて見せる」方向性の細部で勝負していること自体を視野に入れず、ただ単に自分の評価軸で映画を歪め、一方的に批判して「今週のダメダメ!」とか言って切り捨てているのである。これはまさに鴻上尚史が「SPA!」の連載で以前とりあげたような悪い批評家そのものだ。作り手と同じ土俵にあがっていない卑怯者なのである。
実際、『コックリさん』は単調ではあるが、それは比較的早めに切っている編集のリズムもかかわていて、さらに反復される数々のちょっと執拗なまでの恐怖演出も相俟っている。しかし、それを一言で「アホとしか思えない」とするこの「アホ批評家」のような書き方にしてしまうのではなく、別な見方をする方がより映画に忠実かつ可能性を開くものであるだろう。例えば、映画序盤から終盤間際まで繰り返される単調な恐怖は、閉鎖的な村の閉鎖性そのものを象徴していて、それが悲劇的なカタルシスと共に終わる独特の開放感につながり、しかし、そう思った途端、悲劇は終わっていないのを匂わせる結末が来るということの優れた演出と見ることもできよう。
ぼくは映画批評家でもないし、何者でもない卑しい存在だけど、映画を批評的に見たいと常々考えて精進に努めているつもりだ。それは自らが素晴らしい映画に育てられてきて、そういった映画を作りたいと思っているからであり、何より映画が好きだからである。しかし、この批評家を名乗るアホは映画をネタに自分のろくでもないたわごとを述べているだけで、いったいどうしたいのか全く分からない。そんな文章を読んで、人がどういう影響を受けるとか考えてないのだろうか?

*1:本人曰く、別に見てもいないし、1度登録したまま放置しているだけとのこと。